胎児の世界―人類の生命記憶 (中公新書 (691)) (詳細)
三木 成夫(著)
「生命の神秘に関する壮大な物語」「畏敬!尊敬!素晴らしい!!」「いきなり、とまどう」「これが科学なのだ」「これが「生命誌」という分野の”はしり”だったのかも知れない」
地球生命圏―ガイアの科学 (詳細)
ジム・ラヴロック(編さん), J. Lovelock(翻訳), 星川 淳(著)
「仮説としての視点」「地球は生きている!」「ガイア仮説を提唱した最初の本」「いまや古典化したといえるでせう」「ガイア・シンフォニーの元」
「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫) (詳細)
九鬼 周造(著)
「この哲学的思考は秀逸であるが、西洋的分析で「いき」を捉えきれるか。」「日本人が分かる」「方法論こそ『「いき」の構造』の特色」「脱帽。」「作者の表現力がすごい!」
人間と空間 (詳細)
オットー・フリードリッヒ・ボルノウ(著), 大塚 恵一(著)
「人間学的空間論」
海上の道 (ワイド版岩波文庫 (257)) (詳細)
柳田 国男(著)
遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫) (詳細)
柳田 国男(著)
「伝説」「「平地人を戦慄せしめよ」」「素朴で興味深い」「戦前で最も美しい日本語」「吉本隆明に霊感を与えた名著」
陰翳礼讃 (中公文庫) (詳細)
谷崎 潤一郎(著)
「腑に落ちた感じ」「文豪のトイレ随筆に注目」「昔の日本」「懐かしき日本」「新鮮!」
春と修羅 (愛蔵版詩集シリーズ) (詳細)
宮沢 賢治(著)
「最高」「賢治、その純粋さに惹かれる詩の数々」
世界史概観 上 (岩波新書 青版 599) (詳細)
H.G.ウェルズ(著), 長谷部 文雄(翻訳), 阿部 知二(翻訳)
「現在の世界史の教科書の原型のひとつ」「一気に読み通せる世界史」
気まぐれ美術館 (新潮文庫) (詳細)
洲之内 徹(著)
「宮城県美術館」「しろうとの美学」
ユリウス・カエサル ルビコン以前(上)ローマ人の物語8 (新潮文庫) (詳細)
塩野 七生(著)
「カエサルによる元老院中心政治の終焉。」「待ってました」「一気に読ませる」「名前はよく聞くけど、カエサルっていったいどんな人?」「女たらしの借金王=カエサル!」
幻獣辞典 (晶文社クラシックス) (詳細)
ホルヘ・ルイス ボルヘス(著), マルガリータ ゲレロ(著), 柳瀬 尚紀(翻訳)
「very interesting book, but.....」「上半身が獅子で下半身が蟻とか」「クラシックならではの雰囲気を」
ガリヴァー旅行記 (岩波文庫) (詳細)
スウィフト(著), Jonathan Swift(原著), 平井 正穂(翻訳)
「ホントは深い。」「架空の国から人間社会を逆照射」「皮肉を交えた鋭い指摘」「相対的視点の真骨頂」「子供の頃と大人になってから、二度読むと」
茶の本 (岩波文庫) (詳細)
岡倉 覚三(著), 村岡 博(翻訳)
「タイトルに惑わされないように」「本質的な芸術論」「生の術」「日本人の美意識の源泉を捉えた名著」「Japanese style」
風土―人間学的考察 (岩波文庫) (詳細)
和辻 哲郎(著)
「『風土』は風化しない」「和辻倫理学の展開」「歴史的名著かも」「これほどに妖しい光を放つ書物にあたったことがない」「海外旅行の前にお勧め」
新編 日本の面影 (角川ソフィア文庫) (詳細)
ラフカディオ ハーン(著), Lafcadio Hearn(原著), 池田 雅之(翻訳)
「日本の面影」「失ったもの」「古き良き日本の再発見」「親日家が見た幽玄の国」「贔屓にあらず。」
百年前の日本−モースコレクション(写真編) (詳細)
小西 四郎(編集), 岡 秀行(編集)
「明治初年にタイムスリップ」「百年前の日本から、百年後の日本へ。。」「なぜか懐かしい」「一読を!!」「ほしかった本が普及版で!」
・「生命の神秘に関する壮大な物語」
最初の「椰子の実」や「絹の道」等の解りやすい話から始まるが、全体を通してかなり難解な本でした。読み進むのにかなり苦労しましたが、途中から著者の世界観に圧倒され、引き込まれていきました。 この本に対する専門家の科学的な評価は良く知りませんが、太古からの生命の神秘に関する壮大な物語を聞かされたような気がします。 たぶん、これは宗教的な感覚に似ているのではないでしょうか?たまには俗世間から離れて太古の夢に身を任せるのもいいと思います。
・「畏敬!尊敬!素晴らしい!!」
三木成夫を知ったのは、吉本隆明の本で、「なるほど、そう言う人がいるのか」と思い、この本を読んだ。
本当に凄い。著者の言葉は、深く核心に迫り、劇的で、刺激に満ちている。しかも、悪い意味での「妄想」など全くない。全てが「科学」である。
成長繁茂、開花結実。食の相、性の相。宇宙のリズムが内臓に貫入し、内臓は植物の面影を持っている。猪木VSアリの対決に、ワニとゴリラの闘いを見る。卵巣は、生きた惑星。全ての細胞は、天体。伊勢神宮の式年遷宮は、「受精卵の発生分化」。神宮の森は、宇宙のはらわた。
宇宙発生から今に至る全ては、互いに共鳴し合っているのだ。この本を読んでいる間、民俗音楽や波の音などが聞こえてきたように思う。それから、私は福田恆存氏が大好きなのだが、何故か彼が笑っている夢をみた、本当に。
「少し」でも「何か」について、興味を持ったり、勉強している人は「絶対必読」の本、と言っても過言ではないと思う。神話、歴史、地球、宇宙、生物学、源氏物語、ギリシャ悲劇、俳句、バッハ、平安朝、原始社会、福田恆存、保田與重郎、杉浦康平、松岡正剛などなど。
とにかく読んでみて下さい。適切な推薦の言葉が出てきませんが、とにかくオススメ。
・「いきなり、とまどう」
実に面妖な始まり方をします。大概の方は読み始めてすぐに不思議な世界(具体的に何が不思議というのではなく)の予感を感じるはずです。著者の「私的感覚世界」と、解剖学者としての詳細で冷静な「科学者の目」と、圧倒される迫力があるのです。椰子の実の記憶からドグラマグラ経由ゲーテまで、などと書いたら、私はふざけすぎかもしれませんが…日常の生活感覚から少しはなれ、また戻り、して、読み終わったあとは、大いなる世界に旅してきたかの気持ちになりました。
・「これが科学なのだ」
この本を読むと,著者の強烈な情念にまず圧倒される.解剖学者としての著者の専門は.脾臓の個体的 系統的発生であった.その仕事の遂行には,この情念が不可欠であったろうと推測される.そして,冷静 厳密な自然科学を生むのは,まさに強烈な情念なのだ.この本は,その原理をまざまざと見せてくれる点において殆ど類例を見ない.この国にも,かつてこのような偉大な科学者がいたのだ.若くして世を去られたことが,悔やまれてならない.この本の名物は,人間の胎児の顔のシリーズ写真である.これに圧倒されない人がいるとは思えないが,この写真こそが,ラマルクの仮説を論証しているのだ,と言う大解剖学者を信じることが不可能ならば,そもそも自然科学は不可能だ,と言いたい.
・「これが「生命誌」という分野の”はしり”だったのかも知れない」
脳科学者・茂木健一郎氏の本で著者の名を知り、興味を覚えた。 「人間の胎児は、母の胎内で、数億年の進化の歴史を追体験する」…という有名な話の、つまりこの人が“元祖”的存在らしい。なのですが…この本は「新しい科学的知識を得たい!」というようなニーズには、多分、全然、適していません。 四半世紀も前に書かれた本なので情報や学説が古いのは仕方ない。が、そもそも当時のスタンダードな学説に依拠した内容かどうかさえ怪しい。というより、これは「科学書」ではないのではないか。SFというか、「サイエンス・ロマン」とでもいうべきジャンル(が存在するのか、よく分かりませんが…)の本ではないか。 この本で著者が繰り返し述べていること。それは… 「我々の生命は、この地球上で数十億年前に生まれた最初の生命から、途切れることなく続いてきたものだ。その間、地形や気候の大変動など、絶滅に瀕する危機と度々戦いながら受け継がれてきたのだ」…という、つまり「生命の神秘」「生命の尊厳」というメッセージを、様々な事例を持ち出し、さまざまな角度、次元から、力強く訴えている。 (若き日の)脳科学のスーパースターに強烈なインパクトを与えたのは、この「強い思い」と「伝えようとする力」だったのだろう。「科学知識」ではなく、彼のメッセージを受け止めよう…そんな思いで読むべき本だと思います。
・「仮説としての視点」
地球系を生命圏として見る視点を仮説として受け止めればよい本である。しかし、それを科学という必要があるだろうか。科学信仰の先に、生物主観を接ぎ木したことによって生まれる視点で、何か見えるものがあれば、それは仮説として受け入れてもよい。
・「地球は生きている!」
地球が好き!
環境問題を真剣に考えている!!
そんな方は、必読の一冊!!!
地球の鼓動が聞こえてきます!!!!
・「ガイア仮説を提唱した最初の本」
地球は生物も非生物も含めた総合/共生システムであり、気候(温度や雲の形成など)、化学組成(酸素、メタン、塩化ナトリウムなど)などを自己調節・維持していると考える「ガイア仮説」。この仮説を提唱者のジム・ラヴロックが最初に書いた本。この仮説への同期付けとして様々な科学的事実/疑問(状況証拠)が紹介されている。例えば、地球の大気組成が不思議な非平衡状態を保っているのはなぜか、亜酸化窒素とメタン生成による酸素濃度の調節、微生物と海洋塩分の調節、硫黄やヨードの運搬などなど。生物は(生命のない)環境に適応することで生き延び、環境が生物に対して力を持っているという進化論(自然淘汰)の考え方を拡張/修正し、生物は生命維持のために環境を(共生的に)変えているという仮説は刺激的。
・「いまや古典化したといえるでせう」
「ガイア仮説」は今やエコロジーという範疇さえ越えて、「環境」と名がつくあらゆるフィールドを通じて、押しも押されぬ有名仮説になった感すらある。本書を出版した工作舎は、かの松岡正剛が主宰した出版社で、当時、ニューエイジ風の生命論がらみの東洋的?有機体的世界観に呼応するような著作を多く扱っていた。ガイア仮説自体は著者自身もいうようあくまで仮説であって、システムのトータルな機能、やその実在が照明されたわけではない。何故ならこの仮説は「生物」の定義すら見直しを迫る根本的な問いを本質とするものだからだ。単にフィードバックが働くという機能面だけをもって比喩的な概念として「ガイア」が提出されているわけではなく、文字通り「地球は生きている」ことを主張しているからだ。環境がビジネスでも無視できないテーマとなり、田坂広志あたりが遅ればせながら「生命論的パラダイムの時代」を口にし始めるにつれ、ガイア仮説は地球規模の環境問題を語る時におさえておかにゃならない物の見方になっている、とそんな雰囲気だけどどこか余計な精神的なものがくっついてる感じがいやだなあ・・・
・「ガイア・シンフォニーの元」
ジム・ラヴロックは地球を一つの生命体とみなし、ギリシャ神話からとった地母神「ガイア」の名前を与えます。
ラヴロックは具体的に地球上の生命体と地質があいまって働いて全体を維持している様を描こうとしますが、その際メインの存在は我々人類とわたしたちの見知った生物ではなく微生物が主役の位置にたちます。例えばメタンガス、つまり「おなら」が地球の大気圏を維持する層になるわけですが、それを作り出す微生物の住みかとして私たち動物の腸が挙げられます。
こうした視点からすれば私たちは微生物の住みかとしての役しか与えられてないことになります。
人間とその眼の届く範囲の自然、といった通常の人間中心主義エコロジーと大きく違い、公害にせよ人口増大にせよ人間の影響なぞ歯牙にもかけない微生物と地質、海草の世界が描かれます。
・「この哲学的思考は秀逸であるが、西洋的分析で「いき」を捉えきれるか。」
この論文では哲学者九鬼周造により「いき」の内包的構造、外延的構造、自然的表現、芸術的表現について、まさに西洋哲学的分析が詳細になされている。著者の主張のテーマは“序”で述べられている。すなわち、『生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ。我々は「いき」という現象のあることを知っている。しからばこの現象はいかなる構造をもっているか。「いき」とは畢竟わが民族に独自な「生き」かたの一つではあるまいか。現実をありのままに把握することが、また、味得されるべき体験を論理的に言表することが、この書の追う課題である。』と述べ、非常に優れた分析がなされている。西洋哲学風に、この論文書かれているが、著者は日本人であり、徹底的な分析ではない。現実をありのままに把握することを現象論的に論ずることは可能であろうが、論理的に「いき」を分析することは「いき」を破壊しかねなく、誤りであると現代論理学的観点からレビューアーは思う。しかしながら、約80年前に「いき」に関する非常に優れた考察がなされていたことは驚くべきことである。この本の他の二篇を読めば九鬼周造の思想がお分かりになると思います。著者の文章、現代の普通の方には読みにくいと思いますが、特に、理系の分野の方に読んで戴きたい。文学、哲学系の方の読み方とは異なる感想をもち、多田道太郎氏の解説に書かれていること以外の思いを持つに違いない、I HOPE SO. この論文集は必読でしょう。
・「日本人が分かる」
分かることの快感とは、この本を読んだときのようなことをいうのだろう。「いき」という意識現象はいったい何を意味するのか、それを構成する3つの要因に分解して明快に説明してしまう。さらに「上品」、「派手」などを含む趣味体系の中でどう位置づけられるかを、直六面体で示してしまう。感覚的に捉えていたことが、すっきりと言葉で説明されてしまうことの気持ち良さ。しかもその分析作業は論理的でありながら、テーマが何しろ異性との関係に関わる意識であることから、説明には色気が備わる。と思っていたら、多田道太郎の解説が本書のさらに上の視点から、そこに著者自身を取り巻く異性環境が反映されていることを説明してしまう。ここに至って本書は、「日本」を解析した哲学書の名著であると同時に、九鬼周造という哲学者自身の人間を語る書ともなった。
・「方法論こそ『「いき」の構造』の特色」
最近、ホームページで『「いき」の構造』を『菊と刀』の視点から分析した人が居ます。それを読んでハッとしたのですが、『「いき」の構造』の最大の特色は方法論にあるのです。多くの研究者は「いき」という言葉にこだわってその言葉が現われる場面に注目しますが、九鬼はその言葉が生まれてくる社会の集合的無意識に注目したのです。これは、今でも社会系の学者にさえあまり知られていない方法ですが、すでに七十数年前にこういう方法を駆使して日本独特の概念を分析した人があったとは、驚くべきことでもあり、同胞として誇りを感じることでもあります。
・「脱帽。」
面白いです。最初のページを読み出した瞬間から九鬼氏の言葉が驚くほどするすると脳に入っていく、こういう快感を最後に味わったのはいつだろうか?
うーんちょっと興味は有るけど、なんかむずかしそー。と思ってるそこの貴方。これは本当に名作です。是非、是非、読んでください。
・「作者の表現力がすごい!」
内容は、哲学的であるかもしれませんが、人生観、服装、建築、仕草など様々な例を用いて、「いき」の概念について述べられていますので、純粋な哲学書と比較したら、アプローチしやすいと私は思います。
表紙には「いき」に関連する「野暮」「上品」などさまざまな概念との位置関係を表している図があります。私自身がもつ「いき」と作者の「いき」を比較した場合、私の「いき」は、当然、文化的な背景を含んだものではなく、個人を評価するただの一単語と認識している事実を発見しました。全くたいした発見ではないですけが・・・
しかし非常に限定されたテーマを扱いながら、最後には非常に広い範囲まで展開する作者の能力は素晴らしいと私自身は思います。
・「人間学的空間論」
「人間」にとって「空間」は幅・高さ・奥行きといった3次元の広がり以上の意味を持っています。 ボルノウは『気分の本質』(筑摩書房)、『新しい被護性』(未来社)ともに本書を自らの哲学の支柱となる作品と位置づけています。 さて本作は人間が“住まう”空間を追究した作品です。この問題は見過ごされがちな“些細な”問題かもしれませんが、人が人間として生きる上で避けえぬ問題です。一時期ほどでないにせよ欠陥住宅が問題になる昨今、もう一度ボルノウの声に耳を傾けてみましょう。
・「伝説」
伝説は日本のどこにもあったはずである。何故、遠野が選ばれたのか。 岩手の奥の方は、今でも、違う時代を封入している感がある。明治であれば、江戸時代以前の名残があったであろう。それだけに、伝説が真実味を持って迫って来たことは想像に難くない。 当時の人の天衣無縫な発想を、柳田國男の簡潔にして鮮やかな筆致が伝えてくれる。 私は岩手の出身であるが、ひいき目ではないと思う。 拾遺の中に、三光楼という遊郭に通った男の屋号が三光楼になった、という話がある。普通では考えられないことである。しかし、遠野市出身のあでやかなる女性、三光楼さんは私の憧れの人であった。遠野にも、この珍しい苗字の家は2、3軒しかないということであったが、実在するのである。三光楼さんが言った。「六角牛山に3回雪が降ると遠野の町にも雪が降る」と。通し番号299話までのこの本の、第300話として書き込まれている。
・「「平地人を戦慄せしめよ」」
柳田国男が35歳のとき(明治43年、1910年)に発表した衝撃作。もっとも、発表当時は、あまりに内容が異色だったため、世の中からほとんど無視されたらしい。 すなわち、内容は、平地に住む人(平地人)のことではなく、山に住む人(山神山人)のことに終始する。しかし、柳田氏は、これを「目前の出来事」だ、という。そして、「現在の事実」なのだから、それだけで立派な存在理由がある、と。 さらに、「目前の出来事」「現在の事実」にもかかわらず、人の耳に経ることは多くなく、人の口と筆とを倩う(やとう)ことがはなはだわずかだ。「目前の出来事」「現在の事実」を無視しようとするそれらの人々は、「外国に在る人々(献辞)」のようだ。そして、願わくは、それら「外国に在る人々」「平地人」を戦慄せしめよ、と(序文)。 本書は、遠野物語の他、昭和10年(1935年)に増補版本がだされたおりに追加された「遠野物語拾遺」を、あわせ収録する。
・「素朴で興味深い」
遠野物語と遠野物語拾遺を合わせて299話の短編集、一話平均約400字。 遠野物語は、民間信仰、栄枯盛衰、山中での出来事、妖怪、動物、行事、昔話など素朴な話が集められている。みな懐かしい感じがし、お伽やグリム童話といった説話のような説教じみた堅苦しさはない。話からは間接的に当時の人々の考え方や習俗、道徳観が伝わってくる。古今の文化の変化を考えると興味深い。民俗学の重要な史料となっている事も頷ける。 拾遺は題名のごとく残りの雑多なものという感じである。たとえば、当時(明治から昭和初期)の流説も混じっているようである。今で言う「口裂け女」「ターボじじい・ジャンピングばばあ」「こっくりさん」のようなもの。これはこれで当時の風俗を垣間見たようで面白い。あるいは、「先祖伝来の、開けると目がつぶれる箱、なるものを今の代の主人がどうしても見たくて開けたら、布が入っていただけだった。」という話では、近代化に伴い、未知に対する畏怖の消失が現れている様で興味深い。
・「戦前で最も美しい日本語」
三島由紀夫も絶賛した、まさしく一部のすきもない旧仮名遣いの名文である。(文語体聖書もなかなか良いが)特に「寒戸の婆」の描写は、鬼気迫るものがあり、「霊」というものが身近であった時代がしのばれる。「性」にまつわる民話が一つもないことが惜しまれるが、柳田の何が書かせなかったのであろうか。「南方熊楠」とは対照的な戦前の巨人である。
・「吉本隆明に霊感を与えた名著」
あの「共同幻想論」のヒントとなった名著である。 内容は、遠野出身の人物からの聞き書きである。著者による直接取材でないところに民俗学の開拓者としての柳田の限界があるとは言えるが、方法論に対する批判は批判として、ここに収録された伝承群は遠野という「陸の孤島」に封入された特異なものとしての資料的価値以外にも、文学としての独立した価値を十分持っている。 吉本のように、ここから何を引き出せるかを考えるのもよし、古きよき日本の民俗に思いを馳せるのもあり、いろいろな読み方があるだろう。
・「腑に落ちた感じ」
「ヨーロッパはオレンジ色で、日本は白い」といつかテレビで言っていたのを思い出した。夜景の話だ。蛍光灯の明かりは、戦後の経済成長とともに普及したそうだ。その明るい白色の光は、夜もわたしたちのテンションを上げ、興奮させておくのに役立った。蛍光灯の生活に慣れたわたしにとって、著者の陰翳を賞賛する視点はとても新鮮だった。と同時に、古い日本家屋や寺社仏閣に入ったときに感じる「なんとなく落ち着く」感覚のルーツを発見したような気になって、うれしく思った。日本人としての美意識はわたしにもちゃんと残っていたんだな、と(笑)。古い寺などをまわる前にもう一度読もうと思う。
・「文豪のトイレ随筆に注目」
陰翳礼賛。日本の伝統美を語る名随筆としてあまりにも有名な作品。であるばかりでなく、同時収録の他の随筆もみな面白いもの揃いです。とりわけ、「な~んかとっつきにくそう、タルそう」とお思いの方にもお勧めなのが、最後に入っている「厠のいろいろ」。厠、そうトイレです。美しいものにしか興味関心のなさそうなこの著者にしてこのテーマというだけで驚きですが、意外にもかなり楽しそうにうんちくや体験談の数々を披露してくれています。トイレ・エッセイの嚆矢と言ってよいんじゃないかと思われます。そして中国の故事として紹介される理想的な(?)トイレ、というのがまたいかにも凝った奇想の一品なのですが、さてどんな代物か、興味を持たれた方は是非ご自身でご確認下さい。もちろんトイレ内読書にも最適。文豪が一気に身近に感じられる(かもしれない)、短くて楽しい一編です。
・「昔の日本」
昔の日本は、夜の長い帳の中、暗い灯りの下でこその優美、耽美な世界を楽しんでいたのだなと、思いました。昭和初期に書かれた本なのに、「日本は、アメリカのマネばかりしようとしている。」など、谷崎氏の辛らつな意見には、今に通ずるところが多く、楽しめます。ドコモかしこも明るくなってしまった日本、この国固有の美的感覚はどこに行ってしまったのかと、残念な気がします。ちょっと日本文化を見直せるいい機会になると思います。。アインシュタインが、日本を訪れた時の印象ものっていました。へー、っという感じでした。お勧めです
・「懐かしき日本」
初めてこの本を読んだのは学生の頃、蒸し暑い夏だったのを今もよく覚えています。何故なら、エアコンもなしに読んでいたその時、本の中から心地よい風が心の中を吹き抜けたから。
日本家屋の良さ、日本古来の風習...当たり前のことが当たり前ではなくなった今、本当の四季を感じることさえ薄くなってきた今、この作品を時々無性に読み返したくなります。
・「新鮮!」
陰翳礼讃(いんえいらいさん)これはお勧めです。読み終えたあと、70年程前に書かれたとは思い得ないほど新鮮な感じを受けました。豊かな感受性と表現力を感じて下さい。
・「最高」
もし日本の中から,詩集選べといわれたら。これと,山羊の歌を選ぶ。
・「賢治、その純粋さに惹かれる詩の数々」
大正13年4月20日、宮澤賢治は『心象スケツチ 春と修羅』を自費出版した。部数は初版1000部、定価は2円40銭。この、近代日本における画期的な詩集の登場は、当時の人々の目にほとんどとまることはなく、実際に売れたのは100部ほど。賢治は大半の刊本を、せっせと知人などに贈呈したという第一集を手にするのは、感慨無量である。 『心象スケッチ 春と修羅』は賢治の生前に唯一刊行された詩集として広く知られる。 この詩集を読むと、宮沢賢治の独特の詩の世界が広がる。それは、科学用語や宗教用語が数多く使われていることによる。 「心象スケッチ」と賢治自身が名付けた手法によって書かれ、時間の経過に伴う内面の変容、さらにその内面を外から見る別の視点が取り込まれている。 【序】わたくしといふ現象は 假定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です (あらゆる透明な幽霊の複合体) 風景やみんなといっしょに せはしくせはしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける 因果交流電燈の ひとつの青い照明です 上記表題作「春と修羅」の他、「原体剣舞連」「小岩井農場」や妹トシの臨終を題材とした名作「永訣の朝」、そのトシの魂との交流を詠んだ「青森挽歌」「無声慟哭」「オホーツク挽歌」等の作品がよく知られる。
・「現在の世界史の教科書の原型のひとつ」
第一次世界大戦とその戦後処理に於ける列強各国の愚劣さに業を煮やしたウェルズは、「人類共通の観念体系なくして世界平和は不可能」との見地に立ち、史学、生物学、経済学を三本柱に、人間の営みの全体をひとつに総括する意図の下に一連の啓蒙的著作の執筆に取り掛かった。それらはそれぞれ"The Outline of History"(1920)(邦訳複数有)、"The Science of Life"(1930-31)(『生命の科学』、平凡社、1942-43)、"The Work, Wealth and Happiness of Mankind"(1931)(『現代世界文明の展望』、鹿島研究出版会、1967)の三書となって結実した。
本書"A Short History of the World"は、"Outline of History"への大反響に「大衆は知識を欲している」との確信を得たウェルズが、より読み易い様にこれを簡略化して1922年に世に問うたもので、当時全世界で三百万部と云う異様な売れ行きを示した。日本でも戦前から何度も邦訳が為されており、この岩波新書版の改訂前(『世界文化史概観』)の初版は1939(昭和14)年まで遡るが、当時のウェルズは既に世界国家の構想を唱えたり、「日本の天皇制はここ数年の裡に崩壊する」等を含む数々の「予言」を行って危険視されていたこともあり、彼の思想的な側面についての全容は殊に昭和時代に入ってからは我が国には余り知られて来なかった。
阿部知二によるこの1966年の改訳版は1946年の死の直前のウェルズ自身による第2版を基本に、彼の息子のG.P.ウェルズと歴史家のR.ポストゲートが手を加えた1965年の第3版を補遺の形で収録したものである。
・「一気に読み通せる世界史」
世界がどうやって構築されたか、これをざっと読めばその流れが見えてくる、名著だ。
ある程度のストーリー性(つまりは著者の世界観)を持って記述されているので、学校の世界史の教科書は史実の単なる羅列が細かすぎてうんざり、っといった面々にも読みやすいはず。
個人的には、科学技術の発展の話は深く考えさせれた、何故人間は飽くなき欲求の一つとして科学技術の発展を求めるのか。
問題意識を持って読めば歴史の流れが教えてくれる物もその分大きい。
・「宮城県美術館」
仙台市青葉区にある宮城県美術館 1F 常設展示室 に洲之内徹が亡くなる直前に所有していた作品を「気まぐれ美術館-洲之内コレクション」として展示してます。本書の中に取り上げられた作品も多く所蔵、展示されており、作品と洲之内徹との関わりがこれら「きまぐれ美術館」シリーズを読むと一層身近になりますよ
・「しろうとの美学」
「いったい絵というものは、解るとか解らないとかいう前に、ひと目で、見る者に頭を下げさせるようなものがなければ絵とはいえない」というのが氏の持論だが、全くその通りだと思う。
ワイエスの「過ぎて行く時間のある瞬間をまざまざと感じさせる」光線と空気感を賞賛しているのだが、どうやらワイエスは所謂くろうと衆に評判が良くないらしいと述べる。氏は儚さや移ろい易さといった物語的、文学的な言わば古臭い絵画を超絶技巧でやられる事が「こうあらねばならぬ」分業的専門的絵画をよしとするくろうと衆には気にくわないのではないか、と推察する。そして、私はしろうとなので「くろうとが気にするようなことを苦にせず、くろうとの味わえない楽しみを味わうことが出来る」と言う。フランシス・ベーコン等、しばしば美大や専門学校などのアカデミックな学びの世界とは無縁ながらも素晴らしい作品を生み出す芸術家が出るが、彼等は氏の言う枠組みに縛られないしろうとの楽しみを最大限突き詰めた人達だろう。小説家でも画廊経営者でも運動家でも評論家でもない(敢えてそのどれでもないと言わせていただく)洲之内氏はそういう芸術家と同じく映る。
●ユリウス・カエサル ルビコン以前(上)ローマ人の物語8 (新潮文庫)
・「カエサルによる元老院中心政治の終焉。」
前々作のハンニバル戦記と同様、本作品の山場とも言うべきユリウス・カエサルが登場する。本作を読むまで、私はカエサルについて全くと言っていいほど知らなかった。世界史で出てくるのはせいぜい「三頭政治」ぐらいのものだったと思う。何せイエス・キリストが生まれる前に既にヨーロッパには織田信長(?)の如きカエサルがいたのだから驚きである。彼は早くから元老院体制の崩壊をすでに予見していた人物であり、単純に言えば「私益が公益につながる」という信念の持ち主だったようだ。そしてローマ誕生から続いてきた元老院による共和政はカエサルによって終わりを迎えることになる。人によって好き嫌いがはっきりする人物かもしれないが、彼はまさに世界ではじめて変革を遂げた人物と言えるのではなかろうか。
・「待ってました」
やっと文庫版でカエサルが主人公となりました。著者の本を読んで毎回思うことは、歴史の教科書もこれくらい面白ければなあ・・ということですね。歴史の教科書がこれくらい面白かったら、他の授業中に歴史の教科書を盗み読んでいたことでしょう。
本書では前巻のスッラとマリウスに関わる物語も、カエサルから観た視点としておさらいされているので親切である。またカエサル像についても、著者はカエサル自身の発言、他の歴史学者等の解釈を紹介した上で、自分の解釈を述べているので良心的でもある。本巻はカエサルが頭角を現す前の部分がメインになっているため、これまで聞いたことのない大借金や女たらしなどの逸話が満載されていて面白い。本書を通して「キケロ」というととっつきにくいイメージが生まれるのに対して、「カエサル」に対しては親近感が湧いてくる本である。
・「一気に読ませる」
著者が最も愛するカエサルの雌伏の時代が8巻の内容になります。つまり、7巻で描かれたスッラ~ポンペイウスの活躍する同時期のカエサルの視点での物語となります。ポンペイウスに比べれば遅咲きのカエサル。しかし、その魅力は時代の牽引車となる以前もあふれんばかりです。塩野七生のカエサルへの愛情を感じます。
・「名前はよく聞くけど、カエサルっていったいどんな人?」
かつて、「歴史にstoryとルビを振るのか、それともexperienceなのか…」と問うたのは寺山修司でした。おそらくのそどちらもが「歴史」というものなのでしょう。そこから現在への「教訓」を読み取るもよし、「物語」として楽しむもよし。
ただし文化資本の消費者としての立場からいうならば、「面白くなければ歴史ではない」。歴史は読み物としての「語り」が面白いものでなければ消費者としての読者に見向きもされないでしょう。『ローマ人の物語』シリーズ中でもこのカエサルの部分(『ルビコン以前、以後』)は、書き手もおおいに楽しみながら書いているという「熱」がよく伝わってくる、また読み手にとっても最も「エキサイティングで面白い」、ひとつの大きなヤマ場となっています。それがいよいよ手に取りやすい文庫版になって登場です。帝王切開や英語のJuly、「カエサルのものはカエサルに…」あるいは「賽は投げられた」「ブルータスよお前もか」など数々のコトバで知られるカエサルも、ではいったい「何がどう偉大だったのか」実際に知る日本人は少ないかも知れません。ちなみに「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら…」はパスカルのパンセの中にある一説ですが、クレオパトラは容貌の点ではどちらかというと平凡で、必ずしも「絶世の美女」というわけではなかったようです。カエサルほどの男は「容姿だけ」で女性を選んだりはしなかったのですね。
西洋はキリスト教文化とともに古代ローマ文化の影響を強く受けており、その両方について知っておくことが西洋理解のうえで必要となってきます。「八百万の神」や「彼岸」や「親孝行」などのコトバに仏教、神道、儒教文化が流れ込んでいるのと同じような感じです。
読んで面白く、おまけに知識や教訓も得られる、ということで☆五つのオススメです。
・「女たらしの借金王=カエサル!」
いよいよ登場した、誰もが知っている古代ローマ最大のヒーロー・カエサル。この巻では、若かりしころのカエサルが描かれています。
これだけ有名な世界史上の巨人ならば、さぞかし立派な紳士・・・かと思いきや、「ローマいちの女たらしにして、最大の借金王」だったというではありませんか!
しかも、つきあってきた全ての女から恨まれず、また、借金取りに悩まされて人生を踏み外すこともなかったというからすごいです。なぜ、そんなことが可能だったのか?本書を読めば「なるほど」と思えること間違いありません。僕たちにとっても、非常に参考になります。
彼がその後、どのように変わっていくのか?遅咲きの天才カエサルは、現代を生きる僕たちに大きな希望を与えてくれます。
もてたい人、元彼女や元奥様に恨まれている人、借金が怖くてできない人、天下を取りたい人(?)必読!
・「very interesting book, but.....」
ボルヘスの個性が出ていて面白い本です。
中国の鳳凰が「中国のフェニクス」と記されていたり、「ポオの想像した動物」とか「カフカの想像した動物」、「ルイスの想像した動物」等々の項目が含まれていたりして、古典的な幻獣ばかりではないところも、微笑ましいと感じる人が多い筈。
「ユーウォーキー」だの「過去を称える者たち」、「熱の生き物」などといった、ちょっと珍しい架空の動物も載っています。御用とお急ぎでない方は是非お読みになることをお奨めします。
とはいえ、南米人のことですから、日本の空想上の動物に関しては全くもって「無知」に等しいのも否定し難い事実です(ヤマタノオロチが出てきますが、古い本からの孫引きでしかありません)。 また訳者が古典ギリシア語の知識がないせいか、「ロドス島」をわざわざ「ロードス島」と誤記している点も気になります。
・「上半身が獅子で下半身が蟻とか」
知っている人は知っている。知らない人はまったく知らない。古今東西、世界中の想像上の生き物を蒐集し、まとめた一冊です。原典にまでさかのぼっている調べているところといい、これはまさに「蒐集」と書くにふさわしい。 バハムート、バンシー、バジリスク、ベヒーモス、ケンタウロス、ケルベロス、チェシャ猫、キマイラ、八岐大蛇、エルフ、フェアリー、ノーム、ゴーレム、ハンババ、クジャタ、マンドレイク、ミノタウロス、セイレーン、スフィンクス、饕餮(トウテツ)などなど。 スフィンクスやセイレーン、ケンタウロスのようなわりと知られている(?)怪物たちだけでなく、東洋と西洋の竜のイメージの違いや中国の饕餮(トウテツ)まで触れられているのがすさまじい。ちなみに饕餮(トウテツ)は「大食らい」の意味で、人間の悪徳の化身として戒めるためにも使われるそうです。
・「クラシックならではの雰囲気を」
古今東西の空想の怪物が集められた辞典なので内容的に古くなるものではないはずなのですがきちんと古くなっています(笑)。
知りたいところが微妙に書いていないような印象もあり手放しで楽しめる内容とは言えません。情報だけを求めるなら、日本の作家が書いた比較的に新しめの同種の事典がオススメだと思います。
というマイナス要素を差し引いても、なんといっても古典です。ボルヘスです。他の本では代用できない雰囲気があります。それを求める方にはぜひ。
・「ホントは深い。」
子どものころに誰もが1度は読んだガリバー旅行記。有名なのか小人国への旅行だけど、原作はもっといろんな国に行っています。大人国、ラピュタ、日本にもガリバーは訪れていました。もともとは、政府への風刺小説なのですが、ファンタジーとしても十分楽しめます。僕の手放せない1冊です。
・「架空の国から人間社会を逆照射」
言わずとしれた史上最高の諷刺文学。子供向けの抄訳では小人国と巨人国の2篇のみが収録されることが多いが(しかも隠喩部分の多くは省略され、単なるファンタジーになっている)、本書の真骨頂は後半、特に第4篇のフウイヌム国(馬の国)にある。野蛮で貪欲なヤフーこそが「文明」という虚飾を取り払った人間の真の姿であるというスウィフトのブラックジョークは辛辣に過ぎる。当時のイギリス社会に対する批判を突き抜けて、人間そのものに対する余りにも痛烈な批判へと到達しているところに凄味を感じる。
医師レミュエル・ガリヴァーの実録(体験記)という形式を取ったのも巧妙で、本書に一層の深みをもたらしている。ガリヴァーは一見すると冷静かつ客観的な観察者であり、来訪国の奇妙さをしばしば笑うのだが、その実、典型的イギリス人たるガリヴァー自身も諷刺の対象となっている。たとえばガリヴァーがブロブディンナグ国の王に火薬の威力を得々と語るシーンはその最たる例と言えよう。また馬と人間の関係が逆転しているフウイヌム国では、ガリヴァーはフウイヌムに理想を見出すが、現実にはフウイヌムもまた高慢で閉鎖的な差別主義者である。その辺りのことが見えていないところにガリヴァーの限界がある。この卓抜な構造を通じて、スウィフトは人間社会こそが最も奇妙で最も愚妹で最も醜悪であることを示唆しているのである。
・「皮肉を交えた鋭い指摘」
スウイフトが書いたとは知りませんでした。この本は、ピーター・ミルワードの「童話の国イギリス」で子供向けと原書の違いについて指摘されていたので読みました。
コビトの国や、巨人の国の話以外に空中国と猿の惑星ではなく「馬の惑星」風の国とバラエティに富んでいて楽しめます。コビトの国や巨人の国での話には、子供向けと異なり風刺がふんだんに折りこめられています。
また、馬の国は理想郷のように書かれておりこの国の話も一読の価値があります。でも最後は皮肉が過ぎて、スウイフト自身の人間嫌いが如実に出ています。
・「相対的視点の真骨頂」
子供が接する場合と大人が接する場合との間のギャップが語られる代表的な作品である。
極端に空想的な国々を歴訪することで、人間や国家(特にイギリス的な)が相対化されて描かれる。小人の国。巨人の国。空中の国。馬の国。。しかもその手法は徹底的である。いずれの国においても主人公は常に絶対的少数者として存在し(なにしろ常に一人での訪問であるから)、相対化された人間や人間社会の特性はそのまま特異性としてあぶりだされる。いずれの国でも主人公は孤独な異端者なのである。
善悪の価値観であったり、法律などの制度であったり、人間の徳であったり、それぞれの国によりあぶりだされる人間(や人間社会)の特異性はさまざまなのであるが、実はいずれの国においても一貫して見られる点がある。それは主人公を対等の存在として扱おうという姿勢の存在、もっと言えばそうしようとする人物(?)の存在である。いずれの国でも主人公は、主人公の国の文化や制度や人間性を熱心に聴きだし知恵を拝借しようという主人に寵愛される。
この作品により人間に対して言外に突きつけられているのは、実はこの「他者に対する姿勢」、「他者を扱う姿勢」なのではないかと私には思われた。
・「子供の頃と大人になってから、二度読むと」
多くの人が子供の頃に絵本かなんかで読んだことがあるかもしれない。絵本はファンタスティックで読みやすいけど、実はこの作品は、決して子供のためのファンタジー作品という枠におさめきることは出来ない代物でして、至る所に散りばめられた皮肉と毒のある冗談の数々、当時の社会に対する鋭い風刺には思わず苦笑いをしてしまう。ただ文章自体はそれほど難しくないので(日本語)、400Pくらいだし難なく読めると思う。
・「タイトルに惑わされないように」
「茶の本」というタイトルは、とくに若者にとって魅力的なものではない。かく言う私も高校時代に今は亡き教師から熱弁をふるわれたが、このタイトルではどうもピンと来なかったという記憶がある。本書『茶の本』は、茶の本ではない。欧米人に日本文化を理解させるためには、まず彼らの気を惹かねばならない、そのためにとられた戦略からこのタイトルとなったと思われる。これは決して茶の本ではないのである。本書は東洋の美意識、わけても日本の空間的美意識の奥深さを伝えて余すところがない。これは天心の同時代人である漱石の、とくに『草枕』に通ずる美意識でもある(すみません、この指摘は、ちくま新書『法隆寺の謎を解く』の終章、「日本文化の原点に向かって」のなかでで武澤秀一さんがいっていることの引用です)。西洋化とのあいだでゆれた明治時代、これほどまでに東洋、日本の文化価値を知りぬき、そして主張した真の国際人の声に、まずは謙虚に耳を傾けたい。
・「本質的な芸術論」
岡倉天心(覚三)の生涯の仕事の半分は、アジアの芸術に見向きもしない西洋人に対し異議を申し立て、東洋的美意識の何たるかを懇切丁寧に解説することに捧げられた。だから天心の主著である『東洋の理想』、『日本の目覚め』、そして『茶の本』はすべて英語で書かれ、欧米で出版されたのである。 そしてもう半分の仕事は、文明開化とともに芸術の心得を失ってしまった明治の日本に、真の美意識を復興することであった。ちなみに天心が設立に尽力した東京美術学校は、現在の東京藝大美術学部である。
本書は基本的に、茶道の歴史とその背後にある道教・禅の思想、茶道に欠かせない生け花(華道)の美学、そして茶室の建築哲学などについて論じたものだ。テーマははじめから限定されており、分量も少ない。しかし本書には、我々が「芸術」一般について論じる際におそらく欠くことのできない重要な論点が、高い密度で詰め込まれている。
天心は、茶道の芸術性を讃える際に、「生活」と「芸術」の一体性を強調する。天心によれば、茶道における「生活」と「芸術」の一体性は、道教と禅の思想に由来するらしい。 「茶道いっさいの理想は、人生の些事の中にでも偉大を考えるというこの禅の考えから出たものである」(p.50)。そして日常の生活の中にも、「われらに認めたい心さえあれば完全は至るところにある」(p.84)のだが、そのことに気づく者は少なく、「名人にはいつでもごちそうの用意があるが、われわれはただみずから味わう力がないために飢えている」(p.65)というわけである。
また逆に芸術そのものも、生活と密接に交わるものでなくては意味をなさない。「茶の宗匠の考えによれば芸術を真に鑑賞することは、ただ芸術から生きた力を生み出す人々にのみ可能である」(p.84)ということだ。たとえば萩原朔太郎や石川啄木など、似たようなことを言っている芸術家は多い。
これらの芸術家が言おうとしたのは、芸術作品を「芸術作品」として特別に扱い、人間の「生」の文脈から切り離してしまうことが、芸術の本質に反するのだということだ。言い換えれば、芸術(作品)というのは“客観的対象”として取り出すことのできないものであり、それが生活の中に入り込み、生活がそれの中に入り込むことによって初めて成立する営みだということである。
「われわれは傑作によって存するごとく、傑作はわれわれによって存する」(p.65)と天心は言う。芸術作品は、「存在」するために鑑賞者を必要とする。と同時に鑑賞者は、芸術を通じて開示される「世界」を自分の居場所として発見することによって、初めて真の意味で「存在」することができる(これは音楽や文学の場合を考えると分かり易い)。この、芸術と存在をめぐる循環の中に正しく入り込むことによって、真の美意識は成就されるのであり、ついには「彼(芸術愛好者)は存在すると同時に存在しない。……彼の精神は、物質の束縛を脱して、物のリズムによって動いている」(p.67)という境地に到るのである。
ところで、天心は繰り返し芸術作品の「不完全性」を讃えてもいる。たとえば、茶室の建築は「『不完全崇拝』にささげられ、故意に何かを仕上げずにおいて、想像の働きにこれを完成させる」(p.51)ところに美的な趣があるのだと言う。 先に言ったような「循環」に入り込むことが芸術鑑賞の本来的な形式であるとすれば、そもそも作品それ自体を“客観的対象”として取り出したときには、未完成であるに決まっている。鑑賞者と一体化して初めて芸術作品は作品として成就するからだ。 だから、天心が言うところの「不完全性」は、平凡な意味で“何かが欠落していること”と解釈するのではなく、作品が鑑賞者を吸い寄せる神秘的な“力”の別名だと考えたほうがいい。「何物かを表さずにおくところに、見る者はその考えを完成する機会を与えられる。かようにして大傑作は人の心を強くひきつけてついには人が実際にその作品の一部分となるように思われる。」(p.46)というわけである。
以上のような芸術の本意を文明開化後の日本人が一斉に忘却し、芸術の味わい方を見失ってしまったことを天心は嘆いている。「過去がわれらの文化の貧弱を哀れむのも道理である。未来はわが美術の貧弱を笑うであろう。われわれは人生の美しい物を破壊することによって美術を破壊している」(p.71)と。 日本人の創る作品は、「西洋」の無批判な模倣か「古典」の無反省な反復でしかなくなった。そして鑑賞者も、芸術を芸術として鑑賞する心構えを失い、「数世紀前、シナのある批評家の歎じたごとく、世人は耳によって絵画を批評する」(p.70)といった有り様になってしまったのである。
「未来はわが美術の貧弱を笑うであろう」と天心は恥じたわけだが、天心の見た「現代」は未だに続いているのかも知れない。
・「生の術」
「死の術」である「サムライの掟(武士道)」に対するものとして、「茶道」を「生の術」として捉えており、「道教」や「禅道」よりの影響を指摘しつつ、その「相対性」に着目しているのは、西洋の「絶対性」を意識してのことだろう。特に「禅道」と「茶道」のつながりについて詳細に述べられており、両者に共通するものとして「素朴・簡素」「純粋主義」「卑俗からの自由」「審美主義」などの言葉が用いられている辺りは、西洋文明を意識しすぎているように感じる。
現代でも充分通用する、「茶道」を中心とした芸術一般に対する鋭い考察は非常に興味深いが、西洋文明に対する反発と同時に西洋化の波に逆らうことができない挫折感が随所に見られ、ある意味懐古主義的な雰囲気が漂っている。本書の最後を飾る「利休の死」が、「日本文化の終焉(=西洋文明の旋風)」を象徴しているように感じるのは気のせいだろうか?
・「日本人の美意識の源泉を捉えた名著」
新渡戸稲造の『武士道』が日本人の倫理意識の源泉の一を描いたものとすれば、本書は日本人の美意識の源泉の一を描いたものと云える。その意味で、両書は相揃って「半双の二曲物屏風」を構成する近代日本が生んだ重要著作であると考える。
本書を一読して、(1)茶道が建築や庭園、工芸、陶器、生花など今日に伝わる日本文化の母胎であったこと(91〜93頁)、(2)清潔なること必ずしも美ならざること(60〜61頁)、(3)美は細部に宿ること(重複の回避につき64〜65頁、花と掛け軸や彫刻との「協奏曲」につき88〜89頁)、(4)茶道における崇高な目的は自らを芸術そのもの(芸術的人格の表現)にまで高めようとする点に存すること(91頁))などの気づきを得た。
薄いからといって簡単に読める本ではないが(特に道教などの知識が必要であることを痛感)、味読すれば得るところの多い名著だと思う。末尾で千利休の最期の姿を描いた挿話も心に残る。「今日は工業主義のために真に風流を楽しむことは世界至るところますます困難になって行く。われわれは今までよりもいっそう茶室を必要とするのではなかろうか」(66頁)。
・「Japanese style」
茶室は小さい。入り口は小柄な人でも屈んで入らなければならない。すべての人に謙譲を教え込むためのものだそうである。この本は西洋人にむけて、茶を媒介として人道を語り老荘と禅那を説き、ひいては芸術の鑑賞をも理解させる英文の本の翻訳である。しかし一読すれば名訳であることを感じるはず。近頃の「茶」は大量消費の産物と成り下がったが、目まぐるしい現代の日本人は茶をすすり遠くをぼんやり見つめながらいったい何を想うのであろう。
・「『風土』は風化しない」
文明化が進み、現代の日本人には風土に対する関心が薄れてきているかもしれない。あるいは、それは克服すべきものと意識されているのかもしれない。しかし、いくら文明が進んでみたところで、風土が精神や思考方式、感性を養ってきたこと、それが今も陰に陽に作用していることは、風土に裏打ちされた宗教の影響力が国際社会でますます大きくなっていることからも頷けよう。
学生時代に恩師に薦められ、世の中にこれほど面白い本があるのか、と思ったほど熱中して読んだものだ。政治的・イデオロギー的視点から本書を批判する向きがある。また地理学的に精度を欠く点も指摘されている。それぞれ傾聴すべき見解である。しかし今、再読し、風土に着目してそこから人間性や文化の考察を進めることの価値は失われていないと感じた。こうしたスタンスは最近話題の武澤秀一『法隆寺の謎を解く』(ちくま新書)、特にその終章「日本文化の原点を求めて」に顕著に見られる。和辻の流儀が現在にいたるまで脈々と受け継がれ、新しい展開を見せていることは興味深い。
『風土』は決して風化していないのである。
・「和辻倫理学の展開」
一五年戦争期に成った著作であるから、ここに書かれていることをそのまま現代に当てはめることはできない(現代なら「都市」の考察は必須だろう…和辻が都市論を書いたらどうなるかと想像するのは楽しい)。また、巻末の解説で井上光貞が綺麗にまとめているような批判も数多い。
にもかかわらず、やはり今でも読み返す価値のある名著であると評者は思う。何よりも、「風土と人間」という二項対立ではなく、「風土とは人間であり、人間とは風土である」とも言うべき和辻の人間観がそこに展開されている点は、人間をめぐる考察が絶えず回帰してくるポイントを貫いている。
天才的感覚・詩人的直感に基づいて綴られていると思しき記述の片言隻句を捉えてオタク的に揚げ足取りをしたり、学問的手続き論やイデオロギー批判によって斬って捨てたりすることはおそらくたやすい。しかしそれで終わってしまっては読み方としてはあまりに薄っぺらいのではないだろうか。
・「歴史的名著かも」
モンスーン、沙漠、牧場と3種類の風土を湿度の点からまとめ上げている。その論理、切り口は鋭く、舌を巻く。完全に湿度を絶対的な基準として風土を規定しているのだ。その後でモンスーン的風土について詳しく語り、そこから更に、東西の芸術について風土の点から説明を展開する。章の始めにまずそこで焦点となる単語の説明をする、間違った意味で解釈したまま読み進めると大変な誤解を招くためであろう。文章は割と読みやすく、また、同じ内容を言葉を惜しまず懇切丁寧に説明する姿は真摯に思う。敢えて口を挟ませていただくとすると、第5章「風土学の歴史的考察」蛇足かなと思う。それから、もう少し自国の歴史について堪能でいて欲しかった。
・「これほどに妖しい光を放つ書物にあたったことがない」
養老孟司氏の『無思想の発見』で引用があったので、手に取った。和辻氏の高名は聞いていたが、敷居が高くて読むのは初めてだ。
一言で感想を言えば、これほどに妖しい光を放つ書物にあたったことがない。名著とも良書とも違う。誤解を恐れずに言えば「麻薬」のような、そんな魔力をもった書物である。
和辻氏の主張を端的にいってしまえば、気候こそが、そこに住む人たちの行動や思想を理解するカギである、ということである。そのタイプは3つ。
・モンスーン ・・・アジア・砂漠 ・・・アラブ・牧場 ・・・西欧
これだけ見ると変な血液型占いみたいだが、実に考察がツボにはまっていてわかりよい。昭和初年の原稿で、どうかすると100年近くまえのものだが、なんというか、100年どころか2000年前から続く民族性を見事に指摘している、という気がした。
まず、読んでちゃんとわかる。ここが、他のえらい評論家たちとちがう。戦争中の発言で批判も多いと聞くが、それはそれ、これはこれ。日本人の国民性を考えるに必須の古典といってよい。素人でもよくわかります。
・「海外旅行の前にお勧め」
和辻のお勧めはやはり古寺巡礼とイタリア古寺巡礼です。もちろん和辻倫理学が最高峰ですが,これは非常に難解です。和辻の文章はいわゆる耽美派であり,和文調の日本的情緒に富んでいる。この風土は日本人の意識,文化,生活様式,など風土が人間に与える影響を欧州や砂漠地域と対比させながら,非常に説得力ある文章構成で訴える。しかし和辻の思い込みによる日本の美化も散見される。しかし和辻の対象を捉えこれを分析する感受性は素晴らしいものがこの風土にはいかんなくある。
・「日本の面影」
「小泉八雲」。恥ずかしながら、彼の作品は「KWAIDAN(怪談)」を読んだ記憶しかなかった。あるキッカケで、彼が作家として遺した数々の他作を読み始めた。それらの中で、この「日本の面影」が、群を抜き、新鮮で感慨深く印象に残った。 冒頭の「東洋の第一日目」から、いきなり、彼自身が見た『東洋の小さな幻想の世界』に、自分も一緒に入り込んだような不思議な感覚になった。彼の美しい描写文体、訳者の絶妙な翻訳、すばらしく新鮮で、また幻想的で、当時の美しい日本を見る事が出来たような気分になった。 大人になってから、何かの折りに日本文化・風景の美しさを感じる事の多い方には是非お勧めしたい。特に、読書を映像でイメージしながら読む方には「文字を読む」のみではなく、ご自身なりの幻想的な時間を過ごせるだろうと想像する。外国生活の経験を通して日本文化・情緒を再認識したという方々にも勧めたい。
・「失ったもの」
すっかり近代化してしまった平成の世の日本人の視点は欧米化してしまい、小泉八雲の視点と重なる面が多い。西洋文明を野蛮と指摘する彼の言葉は、単なる日本贔屓とは言い切れず、きわめて現代的問題を提起している。
彼の見聞した事物は、当時の日本人なら不思議でも何でもない事であるが、現代人は八雲と同じように、日本の神秘に触れることができる。日本人が当時の日本にオリエンタリズムを感じてしまうのである。それは、日本は近代化によって得たものより喪失したものの方が大きいのではという問を突きつている。
八雲自身、近代化に突き進む日本に危惧を示している。因みに、漱石も欧米の近代合理主義の過大評価に疑問を呈していたのを思い出す。また、山本夏彦氏が、戦前に近代化は完了してしまった、また明治時代、いとも簡単に文語文の伝統を捨て口語に移行し多くを失ったことを指摘していたことも想起されてきた。
本書は、本来の日本人を知り、考える上で、現代人にこそふさわしいものだと思う。なお、翻訳も丁寧で違和感がなく、翻訳と感じさせない出来映えとなっている。
・「古き良き日本の再発見」
日本人って、謙遜なのか、卑屈なのか、批判にたいしてすぐ自信を失ってしまったり、外の文化がなぜかよく見えてしまって自分たちの文化をないがしろにしてしまいがち。でも、日本の、日本人の持っている文化ってそんなに捨てたもんじゃない、むしろ、英国人の目から見てすごく好ましいものだって、教えてくれる一冊。ラフカディオハーン、和名小泉八雲。
英語教師として日本にやってきて、明治の日本の文化の高さに素直に驚き、賞賛を送っている。しかし、八雲が称えた日本の美徳は、もはや過去のものとなってしまったものが多く、とても残念だ。
・「親日家が見た幽玄の国」
ここまで日本の全てを愛してくれた外国人は例をみません。日本についての博識は「日本人とは何か」と、現代の日本人が教えを乞うべきで、こんな幽玄の国を見失ってしまったことを申し訳なく思うほどです。かつての日本には、鳥、虫の鳴き声、方向、石、柱、礼儀作法、童謡、物売りの声、身近な世界の全てに物語やいわれがあった。
・「贔屓にあらず。」
こんな素晴らしい著作が数百円で手に入るという事に感謝。ハーンを日本かぶれの変わった外人だったと思っている人は認識を改めるべし(私だ)。彼の日本論はまず冷静な観察から出発していた事がわかります。私は読後に松江の旧邸まで行ってしまいましたが、ほぼ当時のまま残されているとされる庭を見る事が出来ます。訪れる人影も見えない真夏の昼下がり、ここだけは心地よい風が吹き抜けて、縁側の影に一瞬、かすかな残滓のような気配を感じました。
・「明治初年にタイムスリップ」
~明治初年。1870年頃から1880年頃までに日本を訪問した米国人が各地を歩き回り撮影した「日本人」や日本の風景や習俗などの写真集。
イラストや時代劇での再現しか知らないのが、なんと実写で江戸時代の本当の日本の姿を目の当たりにすることができる。するとそういう再現ものから受ける印象とこの現実が随分ちがうことが衝撃。~~
(明治時代だけど、江戸などの都市部以外の農村では江戸時代と明治初年でそれほど違っている訳ではないのでやはり江戸時代の日本が切り取られていると考えても間違いではないだろう)
農作業をする人、そこから帰宅途中の農夫。普通の町並み、海岸。行商。~~
今とほとんど同じような場面であってもやはり何かが違う。道路の舗装がまったくないだけでこれほど違うのか?身長が低いせいなのか?髪型?村祭りの風景など現代にあってもおかしくない場面だが、やはり時代を感じさせる。
100年前にタイムスリップできる貴重な逸品。写真は300点掲載されている。本書は1983年刊行の書籍の普及版。~
・「百年前の日本から、百年後の日本へ。。」
明治期。百年前にタイムトリップさせてくれる本。ちょうど自分の祖母祖父の、そのまた親たちが写っている時代。この時代を一生懸命に生きて、去っていった先輩たち。
農村には江戸時代の名残が残り、北海道のアイヌ人の暮らしには原始時代の香りがする。一方、銀座には路面電車が走っている。東京駅前はまるでロンドンの街並のようだ。
百年後、日本の子孫たちは今の時代を映像で懐かしむことでしょう。
わたしたちは百年前の先祖から、命を、たましいを、心をつないでもらった。だから、私たちも同じように、命を、たましいを、心を、絶やすことなく、つないでいきたいと思った。
良書。
・「なぜか懐かしい」
今では失われてしまった日本の風景が目の前によみがえります。100年前の日本の美しさにただただ感心させられます。人々の心の美しさも写真を通じて感じ取ることができます。100年前なんてついこの間です。私の祖父や祖母が生まれたころです。たった100年の間に日本はこんなに変わってしまいました。知る由もない100年前の日本が、なぜか懐かしく感じられたのは、私の中にある日本人の心のせいでしょうか。世代を超えて楽しめる写真集だと思います。
・「一読を!!」
当時の状況をビジュアルで理解するには最高の書。
歴史に多少とも興味がある方、また美術に関心のある方、
そしてどちらも興味ない方でもこれは一読しておいて
ソンではない。
・「ほしかった本が普及版で!」
前からほしかったんですよ、この本。でも6000円もしていたので、ちょっと買えませんでした。それが普及版になって半額の値段で買えるようになって嬉しい!お子さんのいる家ならぜひ買って、一緒に見ると楽しいですよ!
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