「捏造の背景の無惨さ」「歴史的スクープの総合報告書」「ゆがんだ価値観」「興味深い。読むべき本。」「内容にはまったく文句はないが……」
遺跡と発掘の社会史―発掘捏造はなぜ起きたか (詳細)
森本 和男(著)
東北学〈Vol.5〉特集 海と島の民族史 (詳細)
中沢 新一(著), 村井 章介(著), 小松 和彦(著), 小林 達雄(著), 市川 健夫(著), 赤坂 憲雄(編集)
考古学キーワード (有斐閣双書―KEYWORD SERIES) (詳細)
安蒜 雅雄(編集)
旧石器発掘捏造のすべて (詳細)
毎日新聞旧石器遺跡取材班(著)
「責任ある丁寧な追跡報告」「この本は旧石器遺跡捏造事件を万人に伝える最良の記録である」「考古学の実態を憂える。」「結局何が変わったのだろうか」
古代史捏造 (新潮文庫) (詳細)
毎日新聞旧石器遺跡取材班(著)
「まだまだ未熟な日本の古代史研究領域」
日本考古学を語る―捏造問題を乗り越えて (季刊考古学・別冊 (11)) (詳細)
小林 達雄(編集), 岩崎 卓也(編集), 石野 博信(編集), 坂詰 秀一(編集)
文化財報道と新聞記者 (歴史文化ライブラリー) (詳細)
中村 俊介(著)
「マスコミ的文化財の捉え方」「ジャーナリストとしてハテナ」
報道が社会を変える―石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞記念講座講義録 (詳細)
原 剛
古代史の謎はどこまで解けたのか (PHP新書) (詳細)
山岸 良二(著)
「縄文時代以降の人々の暮らし、文化謎解きを満喫できます」
神々の汚れた手―旧石器捏造・誰も書かなかった真相 文化庁・歴博関係学者の責任を告発する (詳細)
奥野 正男(著)
「捏造は犯罪ではないらしい。」「無責任体質」
韓国人の日本偽史―日本人はビックリ! (小学館文庫) (詳細)
野平 俊水(著)
「韓国の大ウソを暴く快作」「ホントにびっくりしました。」「韓国人という生き物」「日韓関係をクールに見る」「上の勉強不足の教師へ」
中世日本の予言書―“未来記”を読む (岩波新書) (詳細)
小峯 和明(著)
「未来の話しです。そう言って今を自在に語った人々」「過去は未来にある」「予言書の視点から歴史を眺めてみれば?」「世の中を憂いて逃亡する神様など」「題材は魅力的だが:一箇の書物として未だし」
偽書の精神史―神仏・異界と交感する中世 (講談社選書メチエ) (詳細)
佐藤 弘夫(著)
「こういう視点は 押さえておきたい。」「宗教史苦手ですが、面白いです!!」「うーむ。判断に苦しむなあ。」「偽書の精神史というより」
日本の偽書 (文春新書) (詳細)
藤原 明(著)
「あるいは形を変えて……」「記紀も偽書ではないかという視点はないの?」「客観的・科学的に偽書に迫る」「キリストの墓は青森にあったのか?」「知的好奇心を満たしてくれました。」
偽書「東日流(つがる)外三郡誌」事件 (詳細)
斉藤 光政(著)
「ダマされたことをちゃんと書き残す。偉大な記録」「偽書の魅力」「これ自体貴重な歴史研究」「大手メディアの情報リテラシーの無さ」「悪貨は良貨を駆逐する」
歴史を変えた偽書―大事件に影響を与えた裏文書たち (詳細)
ジャパン・ミックス
ユダヤ人世界征服プロトコル (詳細)
ノーマン コーン(著), Norman Cohn(原著), 内田 樹(翻訳)
「名著再蹂躙」「思想誘導書」
トンデモ超常レポート傑作選 (詳細)
志水 一夫(著)
「読み易くきっちりとした考察が、読者に安心感を与える」「気軽に超常現象の裏を知ることが出来る」「意外と複雑な本」「内容は面白い」「非常にわかりにくい」
中国人の日本観 (岩波現代文庫―学術) (詳細)
アレン S.ホワイティング(著), 岡部 達味(翻訳)
「是非とも読んでおきたい一冊」「懐の深さに驚愕」
旧石器遺跡捏造 (文春新書) (詳細)
河合 信和(著)
「なぜ捏造は見逃されてきたのか」「科学のあり方を問うた捏造事件」「捏造事件の全貌がコンパクトに」「他山の石とすべし」「気分が悪くなる衝撃の汚点の記録」
「自称霊能者の跋扈する現状を危惧する」「邪馬台国もソロモンの秘宝も徳島にある!?」「歴史についてのトンデモ論考」
● 旧石器捏造の書籍
● @十七条憲法は五種類あった!? 【 『聖徳太子五憲法』 関連書 】――検索では見つけにくいものも集めてみました
● @【 ジョン・ホワイト 『地球の最期を予測する』 と、その周辺 】 検索で見つけにくい関連書も集めてみました
● @発見!! 【 超古代史 】 の真相がわかる本?―取り敢えず一冊選ぶとしたら、まずはこの本
● @【 いろんな名前で出ています 】 異名同人集 その5―検索では見つけにくいものを集めてみました
● 腐れ縁の東アジア
● 韓国を嗤え!
● @偽書なの? 【 前野家文書 『武功夜話』 の世界 】―遠藤周作、津本陽、NHK大河のネタ本が!? (@o@;)
● 韓国を知ろう!
● @知られざる 【 アインシュタインと日本 】―日本が 「世界の盟主」 になる!?
● 中世の神仏の世界
● 人生を変えた本
●発掘捏造
・「捏造の背景の無惨さ」
上高森遺跡での旧石器発掘が捏造だったというニュースは知っていたが、毎日新聞社がそれ以前より張り込みをしており隠し撮りによるスクープをしたというのは知らなかった。読めば読むほど、「異常」な「発見」に沸いてきた日本考古学界の奇妙さと閉鎖性に暗澹とする。(これは「バブル」だったんだな。)同時に、きちんとした調査・研究もなされないまま開発という名の破壊を受け、発掘調査という名であわただしく蹂躙されていく日本の歴史遺産にも無惨といわざるを得ない。(たとえば1200年以上守られてきた平城京の長屋王邸宅跡がつぶされて「奈良そごう」となり、わずか11年で閉店してしまったことなど。)
・「歴史的スクープの総合報告書」
日本中を驚愕させた旧石器遺跡捏造事件について、取材の全容を報道した側が自ら記した記録で、極めて興味深い事実が明らかにされている。また、取材の過程は一つ間違うとスパイ小説もどきになりかねないが、愚見によれば一定の節度も保たれている。この、今となっては「いつか、誰かがせねばならなかった事」を一般新聞(毎日に限らず、一般紙に載る学術分野の記事のレベルの低さには呆れることがままある。実際、今回の報道もスタートはそのレベルだったようだ)が行ったという事実も重いものがある。本書はそうした事を考えさせられるだけの内容があると判断して、☆を5つとした。敢えて付言するなら、紙面を見た当事者に極めて近い人物が、「不満」を思わせる言葉を漏らした記述が少々ひっかかる。報告書として完璧を記すため、また報道への積極的な批判を促すため、スクープ当日の全記事を付録のような形で再現しておいていただければ、なお良かったのではないだろうか。
・「ゆがんだ価値観」
この本の内容が日本の歴史を覆す衝撃的な報道だったことは記憶に新しい。誰もが”怪しい”と薄々は感じつつも言葉にすることが出来ない。考古学界という閉塞的な悪しき慣習の前では所詮はすべて戯言。その暗黙のしきたりの世界に大きくメスを入れた読み応えある一冊だ。捏造の証拠を押さえるべく記者と藤村氏との絶妙な駆け引き、捏造の撮影現場での苦労など、一気に読みきってしまうほどきめ細かく描写されている。特にそれまで”神の手”とまで崇められていた藤村氏が、捏造の証拠を突きつけられた途端別人のように豹変する姿は圧巻だ。ただ魔がさしたの一言では絶対に済まされない、このようなゆがんだ行為を野放しにした考古学の世界にも重大な責任はあると思う。
・「興味深い。読むべき本。」
私は、この本が「発掘捏造事件とそれによる歴史学への影響」に関するものと思って読み始めた。しかし、本書は、発掘捏造やその背景の記述も適切になされているものの、むしろ、主として、スクープに至るまでの報道現場の生々しさが伝わってくる「ジャーナリズムの記録」である。 当初は、捏造の確信もなかったのに、周辺資料の収集や関係者へのインタビューで情報を集め、一方、本人には気付かれることなく深夜・早朝の張り込みによってビデオや写真で捏造現場の撮影に成功する。最終的に、本人に動かぬ証拠を突きつけ、報道のゴーサインが出るまでの経過は緊迫感がある。 次に、この本は、組織のリスクマネージメントを考える人にとっても有益である。性善説に立つ閉鎖的なコミュニティがいかに不正に対して脆弱で、信じられないところまで突っ走ってしまうかがよくわかる。 そして、もちろん、石器遺跡研究に重大な影響のあったテーマなので、おそらく古代史学に興味のある人にも有益と思われる。 このように、さまざな意味で読むべき本といえるが、何より興味深く引き込まれる本である。
・「内容にはまったく文句はないが……」
ここ数年来で読んだ、もっとも衝撃的な本。考古学などにはまったく興味はないが、日本人の先祖が毎年のように古くなっていることには何となく胡散臭く感じていた程度だった。しかし、良質なミステリものを手にしたように、一気に読んでしまうほどのめり込む内容である。えも言えぬ迫力には、ただただ圧倒されるばかり。
……難点をいえば、短い文章を書くのに慣れた新聞記者さんが、無理に一冊でっち上げたような、変なあっさり感がしたこと。故山際淳司さんみたいな部外者に、記者たちがお互い何を考えていたとかを聞き込んでもらって、もっと徹底的に書き込んだほうが良かった(同社の人がやると嫌味っぽいし、聞き辛いでしょ)のでは?
・「責任ある丁寧な追跡報告」
読者の私は考古学についてまったくの素人であるが、同じくかつては素人であった取材班による親切な説明によって、事の成り行きや問題点を非常によく認識することが出来た。
この本を読む前に、できれば前作の「発掘捏造」を読むことをおすすめする。毎日新聞社の取材班、藤村氏周辺の関係者など、登場人物がほぼ重複しており、合せて読むことでより理解が深まると思われる。
2000年11月5日の文字通り歴史的なスクープから、2001年9月29日の第二のスクープ(藤村氏本人による数十にわたる遺跡捏造の告白)までの間に、自治体が科学的な根拠から捏造と最終判断した遺跡が一つもなかったところに、この分野の未熟さと鈍さが伺える。そして、この第二のスクープは、日本考古学協会の特別委員会が行われる予定であったその日に発表されたもので、それまでの取材の経緯や、重要な情報開示の引き延ばしを是としなかった判断について、本書において詳細な報告がなされている。
そして、単なるスクープにとどまらず、スクープ後の遺跡検証について、丁寧な追跡取材がなされている。偽りの「世紀の発見」に長年踊らされてしまったマスコミとしての立場も含め、本書によって毎日新聞は一定の社会的責任を果たしたのではないかと評価している。
私の手元には、平成元年(1989年)発行の高校日本史教科書(実教出版)があるが、そこには「また近年、岩宿遺跡よりもさらに古く、10万年以上前にさかのぼると考えられる石器が宮城県馬場壇遺跡など、いくつかの遺跡で発見された。」と脚注に記されている。もちろんこれもウソの記述である。高校生当時の歴史の知識を私のように皆が忘れていれば良いのだが・・・影響の大きさ、広さに、ただただ愕然とするばかりである。
・「この本は旧石器遺跡捏造事件を万人に伝える最良の記録である」
旧石器遺跡捏造というこの事件は、「科学と人間の関係」を語るものとして歴史に残るだろう。この本はそれを万人に伝える記録として最良のものの一つである。 考古学では過去に外国で捏造事件があったし、考古学以外でも多くあったであろう。重要なことは、学問には個人の力以外に組織としての必要な重要事項があることを認識する点にある。学問の社会的責任を自覚し、組織として他との交流を盛んにするべきである。
・「考古学の実態を憂える。」
読み終わって暗澹たる気持ちになれる。考古学を好きで ずっと色々読んできた。しかし考古学者というのは「三千年前の石器」と「三百万年前」の石器が区別出来ないのだ。カミノテというピエロが来ないと石器が出ない、来れば すぐ出る、こんな話を20年間疑うコトもせず超能力だと済ませていた。勿論マトモな先生方も居た。しかし考古学会で無視され文化庁に無視され 毎日新聞が実態をすっぱ抜くまではマトモな先生が異常者扱いだった。もちろん捏造発覚後 私は皆その責任を負い辞職されたのかと信じていた。捏造の疑いを掛けられただけで自死された先生もおられるのだ。ところがどっこい確信犯的な共犯者が相変わらず その地位に座っている。誰も責任を問われず この事件を風化させてはいけない、と強く感じた。
・「結局何が変わったのだろうか」
当時あれだけ騒がれたこの事件も今では次々と起こる新たな事件の山に埋もれてしまった観もある。いや、考古学に興味のある人々の間ではともかく、世間ではもともと話題にならなかったのかもしれない。
この本はあの旧石器発掘捏造の後日談に当たるとおもってよいだろう。発掘捏造自体は前著の『発掘捏造』に詳しいようであり、この本はその後の考古学界の検証を中心としたものとなっている。
それにしてもなぜこれだけの長期間捏造が発覚しなかったのだろうか。そして、疑問を感じていた専門家も少なからずおり、一部はその疑問を活字にまでして提起していたのにほとんど検証もなく、受け入れていた考古学界の実態。学問とは疑いを持つことがすべての始まりではなかったのではないか。「こうあってほしい」「こうあるはずだ」といった思いこみや、批判への遠慮が出土物や出土状況、各種学説を総合して検証するはずの目を曇らしてしまったのではないだろうか。科学的に検証する手段にかけるといった問題ではない。そこへ学閥争い、民族的な動機、功名心といった学問そのものとは別の次元の問題も絡み、捏造をのさばらしてしまった。
残念ながらそういった考古学界はほとんど変わっていないというのが読了後の思いである。「ない」ことを証明するのは「ある」ことを証明するよりはるかに難しいことはわかる。開発のための緊急調査が主体となり、専門家が忙殺されているという現状も理解できる。捏造が発覚したことにより、発覚前に比べて何が変わったのか。旧石器という存在が否定されただけで、他は何も変わっていないのではないだろうかというのが私の偽らざる感想である。
・「まだまだ未熟な日本の古代史研究領域」
同じ毎日新聞旧石器遺跡取材班による『発掘捏造』の後日談ともいうべき内容。副理事長の役職にあった藤村新一氏の捏造によって、東北旧石器文化研究所および周辺の関係機関、関係者がその後たどった経緯について記されている。
結局、古代史ブームに湧いた自治体は展示やサイトの掲載をとりやめ、東北旧石器文化研究所は解散。これまで数々の遺跡発掘で全国の自治体と古代史ファンを喜ばせてきた存在が消滅した。この本で明らかになったのは「日本の古代史研究は大きく後退した」ということ。日本には古代史研究に取り組む環境がまったく整備されていないことが問題点として指摘されている。文明の誕生は今から5000年以上前。本格的な研究が始まってまだ200年。日本人のルーツを知るためにも、今後日本の古代史研究が少しでもレベルアップしていくことを願ってやまない。
・「マスコミ的文化財の捉え方」
文化財担当記者だからこそ見えてくる文化財の現実、それを初心者でも分かりやすいように書かれている。マスコミの陥りやすい文化財報道を自戒を込め詳しく書かれていて、文化財とは何か、研究者とは違った見方で考えさせる一冊である。
・「ジャーナリストとしてハテナ」
事件事故は取材対象として多面性がないと言ってのけたり、ねつ造取材で、取材した関係者に同情心を持ってしまうなど、通常の新聞記者の取材体験が足りないといわざるを得ない。 それに加えて大上段で高所からの見方があり、まさしく「現場を踏まない朝日記者」の書物という印象が強い。残念
・「縄文時代以降の人々の暮らし、文化謎解きを満喫できます」
相沢忠洋氏の岩宿遺跡発掘での大発見、世間を騒がせ考古学を失墜させてしまった藤村氏による旧石器捏造事件、他近年の考古学上の大ニュースなどを1冊にまとめている。
特に、旧石器捏造事件に対してどのような後始末をしたのかも前半で書き記してあり興味部深く読みました。考古学会では知れたお話しだと思いますが、読んでいてなるほどと感じるお話しが多々ありました。縄文時代以降の人々の暮らし、文化などの謎解きの面白さを満喫できました。
●神々の汚れた手―旧石器捏造・誰も書かなかった真相 文化庁・歴博関係学者の責任を告発する
・「捏造は犯罪ではないらしい。」
~この本の著者は怒っている。捏造実行者のF村新Iだけではなく、周囲に居て 捏造に知らぬ振りを決め込んだ「発掘や考古学関係のプロ」や「大学関係者」が 断罪もされず辞職もせずノウノウと生き延びていることを怒っている。縄文石器と30万年以上前の石器の区別もつかない旧帝大教授。火砕流という概念すら判らない共犯らしきアホ研究者。そいつらが我~~々の税金で発掘捏造を行ったツケも払わずに 未だに偉そうに旧石器時代を語っていることを怒っている。読後感は しばらく唖然とししばらくすると怒りが込み上げる。良本である。~
・「無責任体質」
前期旧跡遺跡捏造問題に関する怒りの糾弾。問題はうやむやにされ、責任を取るべき人間が公的機関に居座ったままでいる。また、「神々」という複数形のタイトルは、神の手(ゴッドハンド)と称えられた藤森新一氏、そして彼を利用し地位や名誉を手に入れた関係者達を指している。 怒りすぎてやや言い掛かりに近いところもありますが、著者の主張や怒りは概ねその通りだと思います。大学教授や文部科学省職員が「だまされた!」ってねぇ…。「本当はぐるでした」っていうよりも情けないと思いますけどね。 遺跡にとどまらず、自動車リコール問題や構造設計偽造等あとを絶たない無責任体質。それは考古学界の体質というよりも日本社会の体質と言えるのかもしれないですね。前期旧跡遺跡の捏造問題に興味のある方にお薦めです。
・「韓国の大ウソを暴く快作」
素晴らしい!韓国の大嘘を暴いた快作!作者は「日本書紀や万葉集は百済語の漢字音で書かれている」という論文を韓国で発表して韓国『朝鮮日報』で絶賛されて博士号を獲っただけあって、その博士号論文と正反対の内容を日本で本にしたわけですね!日本と韓国での言を使い分けるバランス感覚を垣間見ました。
日本と韓国はフクザツな関係があり、なかなか良好な関係が築けません。日本では韓国を手厳しく批判したり別のペンネームで友好本を書き、韓国では道化な日本人役としてテレビに出ることで両国民を喜ばせてくれる作者は日韓関係のシンボル的存在です。一部の不心得な日韓両国民が作者を互いに自国側の友好人士だと誤解するのは残念です。
正体不明の評論家たちが跋扈する日韓関係の虚構性を知るうえで、本書は重要な参考資料となるでしょう。続編を楽しみにしております。
・「ホントにびっくりしました。」
韓国人の内面には、私たちには計り知れない何かがあるのだと思い知らされました。気になって仕方が無いアノ子の家まで付いて行ったり、数分置きにメールを送ったり、そんなメンタリティを感じます。
・「韓国人という生き物」
多分、日本人で外国人(韓国人)と縁のない人にはわかりずらい事と思うが、日本など世界的に名が知れてるメジャーな国は評価されたり批判されたりで話題の中心になる事が多い。注目、評価、話題になる事で日本人の自尊心は満足される。でも、韓国の様に世界的に見てマイナーな国の人達は自尊心が満足される事が少ない。韓国人の事をよく理解している人はわかると思うが、韓国人は自尊心を満足させる為なら嘘でも平気でつくし、根拠のない事も平気で言う。韓国人は自分の自尊心を満足させる為に、自分達は日本人より偉いんだ!!日本文化は韓国がルーツで、全部自分達が教えたと言い続けるしかない。歴史を持ち出すのは大昔の事なので歴史的事実が本当の事かどうか確かめようがない。言った者勝ちだからだ。こういう事を言うと韓国の事をよく知らない人から、それは韓国人に対する偏見だと言われる事が多い。でも、実際、日本人を始め、その他の国の人々で韓国を知れば知るほど韓国の事が嫌いになる人が多いのはなぜか?理由は韓国人の次元の低い話に付き合わされるのにあきあきしてるからじゃないですか!?日本人はいつまで韓国人の次元の低い話に付き合わなくてはならないのか?野平さんの普段の苦労が忍ばれる。
・「日韓関係をクールに見る」
こと日韓関係の議論となると、熱血漢の韓国人はもちろんのこと、日本人までもが、売られたケンカは・・・という感じで激昂し、薄汚い暴言の応酬になることが多い。
この本の方法は、韓国人の主張を冷静に、かつ論理的に検討し、その真実部分は評価し、虚偽部分を指摘するという、まったくの正攻法なのだが、これほど公平なスタンスで、日韓両国を批判した本はいままでなかったのではないか。議論は相当細かいが、読みにくくはない。
なかでも、多くの「偽史」が、植民地下の朝鮮を懐柔するために日本により活用され、それが今では逆に韓国人に利用されているという話は面白かった。
・「上の勉強不足の教師へ」
1602年に明が作った「乾輿萬國全図」という地図にはっきりと「日本海」とでている。明の属国朝鮮ともな!
・「未来の話しです。そう言って今を自在に語った人々」
外国と同じように、日本にも未来を予言する「予言書」の書物が沢山あります。「未来記」(みらいき)と称されているそうです。それらは非現実的で荒唐無稽なお伽噺と見なされてきました。あるいは史書の体裁を装っていても、間違った史実を記しており「偽書」とされてきました。そのため日本史や日本文学史の中では、正統な学問研究から外されてきました。著者は、今まで手つかずのこの「未来記」のジャンルを研究するのは意味があると考え、特に影響が大きかったと思われる「野馬台詩」と「聖徳太子未来記」を取り上げ考察しています。
・「過去は未来にある」
「野馬台詩」「聖徳太子未来記」の2書を中心に、中世に広く読まれた未来記とはどのようなものであったのか、未来記が流行する世相はどのようなものであったのか、正統の史書とは一風変わった変わった世界から中世を見つめようという試みである。
中世といっても前期と後期では大きく様相が異なる。予言書の扱いでもそういった面は見られる。前期は超自然ともいえる予言から忠実に未来を読み解き、従っていこうとする、古代的な心性が色濃く残っている。次第に予言は予言、いかに予言を利用して権威付けをしていこうかという現実重視の立場に変化し、江戸時代あたりになると話のネタていどまで権威は墜ちていく。曖昧模糊とした予言書の文言は読む人が読みたいように読めるだけである。確実性のない予言は次第に自信をつけ始めた現実重視の潮流に敗れ去っていくのは世界共通の流れである。
なぜ中世の人々は未来記にそこまで熱中したのであろうか。それは先の見えない時代の不安ゆでであろう。過去は見え、未来は見えない。見えないものを何とか見えるようにしようとする試みの一つが予言書とその解釈であったのであろう。歴史の偉人の残した言葉から未来を読み解こうとするのは世界共通の心性。日本の中世だけに特殊な事例ではない。
このような中世の人々の態度を我々も嗤うことはできない。今では見る影もないがマルクス史観も今では剥がされてしまった「科学的」という衣を着ただけの予言である。見えもしない未来を予測しようという態度は中世の予言書と何ら変わることはない。今でも社会科学・自然科学の分野では様々な手法で未来や結果を予測しようという取り組みがなされれている。手法が変わっただけで、中世も現代も見えない未来を見通そうという心性はなんら変わりない。
・「予言書の視点から歴史を眺めてみれば?」
古今東西「予言書」なるものは多くある。この本の著者は、歴史を論じるのに、あえて予言書なるものに軸足を置いている。すなわち聖徳太子の「未来記」や『野馬台詩』などの予言書たるものが信じられていた時代の人々が、これらの予言書をどのように捉えていたのかという観点から、その当時の世相や人々のものの考え方を明らかにしていこというものなのである。そこから時代の断面が見えてくるのである。このようなユニークなアプローチの研究は、あまり試みられていない。新書ながら、読みごたえのある作品である。『野馬台詩』の謎―歴史叙述としての未来記
・「世の中を憂いて逃亡する神様など」
過去の日本で、予言は政治の方向付けを変えるほど重要な存在だった、としても過去の人たちの考え方や信条にかかわる問題だから、歴史的に取り扱うのは難しい。それを資料でどう裏付け、歴史認識につなげるのかという課題への取り組みを語る。 取り扱われるのは5世紀末の人である宝誌和尚が書いたとされる「野馬台詩」。それに加えて<聖徳太子未来記>が中心だが、それ以外のさまざまな未来記についても触れられる。 時代が下がるにつれて、未来の記述が過去になり、それに伴ってどう取り扱いが変わるかなども論じられる。
未来記という素材は今後の研究発展に期待を持つに十分だが、まだ取りまとめ方にいまひとつの感がある。個々の成果にはおおいに興味を惹かれるものがある。
・「題材は魅力的だが:一箇の書物として未だし」
前著「『野馬台詩』の謎」に引き続き、日本中世の未来記、ことに聖徳太子に擬せられたものや野馬台詩を中心にした論考である。題材は誠に魅力的なのだが、残念ながら今回もあまり魅力的な書物ではない。理由のひとつは史料そのものの絶対的な不足。今回も完全な形で載せられたのは「野馬台詩」のみで、未来記はあちこちで一行か二行の引用があるのみである。当然聖徳太子未来記五十巻などが現存する訳はないが、瑪瑙記文など当然収録されて良いものすら、原文は僅かしか見あたらない。一般の人の読みやすさを考慮して、とあとがきにあるが、未来記そのものがどんなものかわからない状態では読みやすさもあったものではなく、未来記の原文にあたることの困難さを考えるなら、一章くらいはこの本で取り扱った書物の関係箇所の抜粋にあてるべきだろう。そしてもうひとつは、筆は未来記の周辺をうろうろするものの、何を書きたいのやら一向に判然としない。いわば指向性がないこと。未来記に頼る人々の状況を「未来記症候群」と名付けてみたところで、非常に散漫な印象しか与えない。全ての章が未来記に関係しているのは事実だが、一冊の本を成しているとは言い難い。次著もものされる予定のようなので、今度こそ「一著」を。
●偽書の精神史―神仏・異界と交感する中世 (講談社選書メチエ)
・「こういう視点は 押さえておきたい。」
谷沢(聖徳太子はいなかった)永一センセイ 激賞の本ですが、専門書の割には わかりやすくおもしろかったですね。
内容は宗教史のカテゴリーになってきますが、中世においては、寺院が経済や 場合によっては政治の中心であったわけですから、宗教の範囲で、この本を読んでしまうと それはとてももったいないことになってしまいます。
誰かの保証があっての権威あっての先例が あの時代にはいかに大事か またそのためにいかに偽作、偽文書が作られたか?
先行の旧仏教の対立のなかで 聖徳太子という存在を、親鸞が持ち出してきて、いかに新仏教を築いていったのか?そのあたり、教科書ではいまひとつわかりにくいところが、イデオロギーの面で さらっとしながら、触れているのが おもしろかったです。
・「宗教史苦手ですが、面白いです!!」
偽書(簡単に言えば、嘘っぱちを言っている書物)を一つの視点として中世の宗教を論じた書。引用されている文書も漢文体ではなく現代語になっているので読みやすいと思います。多少、仏教の専門的な言葉が出てきますが、文章を読み進めていくと理解できるので専門家でなくても問題は無いでしょう。
主に偽書を作る宗教者の視点で、論旨が進みます。偽書(聖徳太子が未来を書いた、という書物など)が生まれ、流通した時代背景、当時の宗教者の考え方、精神世界などが論じられています。中世宗教(鎌倉新仏教あたり)がお好きな方には特におすすめです。
・「うーむ。判断に苦しむなあ。」
「偽書」と断定するには相当の覚悟が必要でしょう。
極端な例で申し訳ないけど、「日本書紀」や「古事記」を偽書としまえば、日本の古代史は、大混乱するでしょう。
この本は、そういう大胆な主張を差し押さえて、「写本」等をちまちま攻撃するというセコイ視点での主張に終始してる。残念だ。
・「偽書の精神史というより」
偽書の精神史というより、宗教史と偽書と認識すべき。偽書についてより、宗教史における偽書のことが書かれているだけ。偽書研究の一助にはなるかもしれないが、それだけ。偽書の本質が語られていないのは残念。
・「あるいは形を変えて……」
偽書の内容についてのリファレンスというより、その背景や成立過程について詳述されたもの。他の方もお書きの通り、かなりアカデミックな側へ振ったトンデモ本研究書とも見ることができよう。「この文書が成立したのはこの時代で、正本と副本とがそれぞれここに保管され、近代において発見されたのはかくかくしかじか……」という「作品だけでなく、その周囲を全て創作してしまう」というのはSF界でよくある話である。商業的要素に100%軸足を置いて考えれば「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」がそうであろうし、名高い「ネクロノミコン」もこの範疇と言える。また、そういう行為全体を一つのエンターテイメントとして見れば「愛国戦隊ダイニッポン」もいい例だと思う。「20世紀、某所のサーバに時空を越えて23世紀のデータが紛れていた」というスタトレ関連の書籍(笑)もその範疇に入るかもしれない。……結局それらのことが(背景に国粋主義の台頭などといったことがあったにせよ)ちょっと昔に行われた、それがこれら偽書の世界なのではなかろうか。
・「記紀も偽書ではないかという視点はないの?」
旧事記についての、この著書での見解には異議の在る方もあるようですが。それはさておき、この本はトンデモ本批評の流れで解釈するのが正しいと思いますが、それなら記紀はどうなるの?そういう思いをこの本を読んで感じました。記紀の写本のまともなものがあるのが 鎌倉時代、刊本は江戸からですがそれについては どうお考えになるか 聞いてみたいと思う。
・「客観的・科学的に偽書に迫る」
好きな人はとても好きな偽書の世界。その通説を無視した荒唐無稽な世界は、多くの人は相手にせず、興味のある人々の間でだけ語り継がれる。しかし、時として表舞台に登場することもあり、世論に影響を与えたりもする不思議な世界。
本書は『上記』『竹内文献』『東日流外三郡誌』『秀真伝』のような知る人ぞ知る大物の偽書を中心に、偽書とは何かを論じていく。「皆は信じないけど、これが本当の歴史だ」とか「これはこんなにも胡散臭い本だ」とか主観から偽書を論じるのではなく、「なぜ人々は偽書に惹かれるのか」「どのように偽書は成立したのか」といった、偽書そのものの内容よりも偽書が成立し、受容(一部の人であるが)の過程を追跡していった本である。偽書の内容について一つ一つ科学的に論破していくというパターンでなく、偽書の形成過程を科学的に追跡するこの書は私にとっては新鮮であった。
一部の真実があればその書を偽書でないということはできないし、著者が偽書を作ろうという意図がなければ偽書でないというわけでもない。『先代旧事本紀』や「中世日本紀」に見られるように偽書は近代的な要素ばかりでなく、中世にも素地があったという考察はとても興味深い。歴史学・文献学が厳密になったこととも関係しようか。後世の人物が何らかの意図を持って歴史を改ざんしたり、創作し、それを歴史的事実であるかのように装うのが偽書といえようか。しかし、事実か解釈か。学問の世界では泰然とした違いがあるが、その世界を一歩出れば混沌とした世界である。例えば歴史書の史観と歴史小説の史観の違いも学問以外の世界にいる人間には理解されていない。有名な某歴史小説家の「●●史観」もあくまで小説の世界であって歴史学的には何の根拠もない。そのあたりの違いを理解することと偽書と真書の区別を理解することは同じフィールドの問題であるような気がした。
・「キリストの墓は青森にあったのか?」
私は若い頃、オカルトファンであった。愛読雑誌はムーだった。
であるから、本書で扱う「竹内文書」「秀真伝」「東日流外三郡史」などという、怪しげな歴史書の名前も知っていた。そして、これらが一般には偽書といわれており、ちゃんとした学者は認めていない本であることも知っていた。
たとえば、キリストの墓が青森県戸来村にある、という話。
義経=ジンギスカン説と並んで、オカルトファンなら知らぬもののない、大変に有名な話である。竹内文書に書かれている話である。ストーンサークルがあったとか、日本最古のピラミッドがあるとか、東北民謡が実はヘブライ語だったとか、いろいろな周辺の話も豊富にあって、とても不思議で夢のある話だった。
ところが、本書はその竹内文書を、完膚なきまでに打ちのめす。
面白いのは、書かれている事柄そのものが科学的か非科学的か、証拠があるかないか、という観点だけではなく、いつごろ、どういった経緯で世の中に出てきたか、そのことに誰がどのように関わったのか、という観点で詳細に分析を行っている点である。
偽書は贋作者の創作物というだけではない。一新興宗教のでたらめな経文=竹内文書が、昭和初期の軍国主義へと向かう時代の中で、果てしなく膨らんでいったように、偽書が信じられる背景には、それを必要とした時代がある。その観点では、いわゆる「都市伝説」といった類のものと似ている。
現実にはありえないを信じてしまうのは、それを信じたいと思う気持ちがあるからこそである。キリストどころか、モーセ、釈迦、孔子、老子、マホメットにいたるまで神道を学びに日本に来ていた、とか、日本の神々がUFOに乗って世界中を巡幸したとか、そんなことは事実であろうがなかろうが、どっちでもいいのである。普通に幸せに暮らしている人には何の意味も持たない。
裏を返せば、思うようにならない現実があるからこそ、漠然とした時代への不安があるからこそ、偽書が生まれ、都市伝説が生まれる。オカルトもまた、この文脈でしか存在し得ないものだったのだ、といまさらながらに気づく。
若い頃のあわい幻想は見事に打ち砕かれてしまったが、オカルトにさしたる興味もなくなってしまった今、たいしたショックもない。それよりも、あの頃どうしてあんなにオカルトを求めたのか、若い頃の自分は何を求め、何から逃げていたのか。むしろ、そちらの方が気になっている。
・「知的好奇心を満たしてくれました。」
記紀以前の歴史を記した書として、竹内文書に代表される偽書が多数あります。
どういう内容が書かれているのか。どうして、それら偽書が作られたのか。なぜ偽書だと断定できるのか。
著者は多数の裏づけを挙げて、これらを解説していきます。
本書の性質上、やむ得ないのでしょうが、本文中随所に出てくる参考文献の表示が、ややうざったく感じられます。本格的に偽書に関して研究を始めようというのでなければ、どんどん読み飛ばして良いでしょう。世にはびこるトンデモ本に騙されず、それらを楽しむためにも、ご一読をお勧めします。
・「ダマされたことをちゃんと書き残す。偉大な記録」
「東日流外三郡誌」を「つがるそとさんぐんし」とちゃんと読める人、必読の本です。一晩で一気に読んでしまいました。じつに面白い本です。
私もオカルト・超古代史の基礎教養を学びまして、名前は存じておりました。しかしちゃんとしたのを読んだことがない。孫引きとかで知ってるだけで、これ、偽書ファンの特徴ですね。だから本書を読んでると、「このWって人のやり口は杜撰でスカタンでひどいなー」って思うんですけど、全然笑えない。ダマされた人たちをバカにできない。私だって当事者だったらダマされたかもしれないもの。東北人の文化的雰囲気、村おこし等の圧力、自治体や大学教授のお墨付きなどのいろんなバイアスが、この杜撰な「古文書」を堂々と一人歩きさせてしまった。その構造が、すごくよくわかります。
私の田舎にある三角の山は、本来の名前ではなく「日本ピラミッド」と呼ばれています。百年後くらいにはきっと歴史的事実になっちゃうんだろうな。ほかにも「ヘブライ語で日本民謡が読める」とか「アポロは月に行ってない」とか、耳に心地よい妄説は根強いですよね。偽書が元になって世界的な勢力が生まれることもあります。アメリカの巨大なキリスト教もどき教団の経典も偽書ですが、これを指摘し続ける人はあまりいません。偽史・偽書のたぐいは死に絶えることがありません。信じたい人がいるだけでいい。「東日流外三郡誌」もきっと近いうちに復活するでしょう。いや、すでに書店には「偽書とされるが実は真実を書いた部分もある」というスタンスで紹介している本が並んでいます。ちょっとしたエクスキューズさえはさめば、どんなトンデモだって出版できちゃう世の中です。
単なる労作じゃないです。真摯に事実と向かい合い、耳に心地よくないことを書き残した、勇気ある記録です。その結果、人間心理の深奥に切り込む鋭いルポになりました。
・「偽書の魅力」
東日流外三郡誌が偽書であるのはものの数ページではっきりしてしまい、あとは勝敗のわかったワンサイドゲーム…のはずなのに最後まで引き込まれるこのおもしろさはなんなのでしょうか。ひとつには筆者の淡々とした文体の気持ちのよさがあるのですが、やはり津軽の山村やとんでもない男であるはずの偽書製作者への筆者の愛なのではないでしょうか。中二階にこもって偽書を作り続けた名家でも何でもない単に古い家と偽作者死後にそれを買い取って取り壊した隣家の女の人、炭焼きをやっていた山の壊れた祠。そういう津軽の写真の積み重ねがなんとも心にしみてきます。版元がサブカルの棚を狙わなかったのは大正解です。
・「これ自体貴重な歴史研究」
地方紙の記者が、古文書を筆ペンと障子紙でねつ造しつづけた人物の引き起こす騒動を描いたドキュメンタリーです。地方自治体、郷土史家、マスコミ、研究者、大学が巻き込まれていった過程が詳細に記述されています。本書から読むべきは、そうした騒動の顛末のおもしろさ以上に、なぜこういう騒動が生まれるのか、騒動のおおもとのねつ造家・和田氏のような人物が生み出され、彼に影響力を与えてしまった社会的・歴史的要因とは何なのかを追究しているところです。人々の歴史意識、歴史観の醸成のされ方に注目しているという点で、一つの歴史研究になっていると思います。
・「大手メディアの情報リテラシーの無さ」
「内容は五流ながら規模では最大」の偽史として悪名高い「東日流外三郡誌」事件の記録。著者はひょんなことから係わることになった「東奥日報」記者。さすがに当事者として係わった物の記録は克明、筆致は面白く、読んでいるものに休む間を与えず引き込んで行く。 それにしても何故明らかな偽作に引っかかるのか。アカデミーの世界の人間が係わりたがらないこともあるが、印象深いのは大手メディアの情報リテラシーの無さ。安本教授の「この優しい精神は危険である。常識性をはじめから無視する人、あらそいを厭うよりもむしろ好む人は、この優しさに乗じて、人心を支配する。」との指摘が痛い。
・「悪貨は良貨を駆逐する」
古代東北に、大和王権を凌ぐほどの王国が存在したとするこの「東日流外三郡誌」を巡り、真偽論争はいろいろなマスコミも取り上げ、おりからの古代史ブームもあって、90年代にはかなりの反響を呼びました。
この事件は、ニセモノの古文書を市浦村の村史編纂委員会に持ち込んだ所蔵者の悪行はもちろんですが、それを半ば承知しながら税金を使って刊行した自治体の責任こそ糾弾されるべきものでした。しかし世間は真書派と偽書派の真贋論争に目を奪われ、自治体の責任追及はおざなりになってしまっていた感があります。
また、学界もこの史料があまりにも荒唐無稽だったため、はじめから無視を続けた結果、いいかげんな学者のこれまた無責任な宣伝活動を野放しにしてしまいました。その学者は、かつて古代史論争で一世を風靡したこともあったので、「もしかすると、東日流外三郡誌は本物かも・・・」と思い込んだ人たちを生み出すことになりました。
ちなみに“偽書”というのは、「そこに書かれたことがデタラメである」ということではありません。“偽書”とは、『過去の先人に仮託し、その文書が成立した由来や来歴を偽ったもの』というふうに定義されます。「東日流外三郡誌」は、“江戸時代の寛政期に書かれた”ものであるとしながら、その内容に近代以降の知識がないと書けない事がいくつもあったり、「古文書の筆跡が、所蔵者と同じ」だったことから、『戦後に書かれた“偽書”である』と断定されたのです。
東日流外三郡誌が流布したことにより、本来東北に伝わっていた歴史や伝承が歪められた例は少なくありません。また、それをもとに「村おこし」などの事業を展開した自治体や団体もあります。そういったものは、きちんと修正されない限りは、歪んだまま後世に伝わることになります。その意味では、“東日流外三郡誌事件”は未だ終息してはいないと言えるかもしれません。
オカルトマニアや古史古伝に興味のある人だけではなく、一般の人も読んでいただき、このような事件の起きることの危うさを知っていただきたいと思います、
・「名著再蹂躙」
原題「Warrant for Genocide」を『ユダヤ人世界征服陰謀の神話』(以下『神話』)というタイトルでこの出版社が86年に出した本が、ちょっとだけ装いを変えて再刊。
著者ノーマン・コーンが高名で立派な学者であること、元の本が圧倒的に面白い古典的名著であることは86年刊本の方のレビューで書いたので略す。20年以上前の『神話』を絶版にして2007年に新たに出したこの本がどう変わっているかに絞ると、結論として、中身は何一つ変わっていない。相変わらず抄訳。相変わらず電波本を高らかにアピールするような下劣な装丁(邦題や表紙絵、帯の惹句など)。訳者あとがきなどがあらたに付け加えられたわけでもない。付録から章立てからなにから本当に全て『神話』と同じである。
『神話』をすでに持っている人なら買い直す必要は全くない。そして、この名著を再び救われない形で売る出版社への幻滅に『神話』よりさらに星を減らして星三つ。
・「思想誘導書」
嘗て80年代に出されたバージョンを読んだ事があるが、要するにアシュケナジー系ユダヤ人がナチスの行ったポグロム政策の決定的な方向付けに拍車を与えたのが”シオン長老の議定書”と呼ばれてきた偽書であると、世界に蔓延るアカデミックな人民に信じ込ませる為の予防薬である事が徹頭徹尾、全編に読み取れる代物。 思わせぶりな世論誘導の書であると共に、これが一般的な世の正論であるが如くに捲し立て件の書を”紛れも無い偽書”として印象づける作為に溢れた”シオン議定書”の内容を一知半解のままに停め、二度とこの問題に近づけないようにさせる為の言葉に終始するばかりか、実は”シオン長老の議定書”の内容は編集され、一部しか載せられていない。
お分かりだろうか、この紙屑が出版された意義がどこにあるのか。当然、読む価値は、ある。
だが、このようなものを買ってはならない。
・「読み易くきっちりとした考察が、読者に安心感を与える」
志水一夫は、永年不可思議な事柄や不安を煽る商売に対し、感情的にならず常に冷静におかしな箇所を解明、指摘してきた。今日における大多数の人々が惑わされる占いなどの因習に対しても、十数年以上も前から矛盾点を指摘してきた。
この様な志水氏の地道な活動に反して、多くのメディアは「視聴率」という損得勘定のために、多くの人々を不安に陥れている。
特に若い世代が、不安を煽るTV番組などで人生を誤っても、メディアは一切責任を取らない。
永年、地道な努力で多くの若い世代に常に不安を取り除く活躍をしている志水氏に、敬意を表すとともに、多くの若い世代に読んでもらいたい本だ。
おかしな事で、人生までおかしくさせないためにも…。
・「気軽に超常現象の裏を知ることが出来る」
傑作選というタイトルの割には、私などはほとんど知らなかった日本の昔の占いなどの話が割と多かったのですが、全体的にいかに超常現象的なもの(商売)には、イカサマやトリックが多いかということを気軽な雰囲気で知ることができる本だと思いました。私はもうTVの超常現象関係の特番はかなり疑いの目で見るようになって久しいですが、影響されやすい人たちに読んで欲しい本だと思いました。
・「意外と複雑な本」
著者はパラサイコロジーの研究家であって超常現象に対して懐疑的ではあっても愛をもって接している。これが著者言うところの「懐疑派」のゆえんであり、著者にとって、超常現象をネタにして大衆をバカにして自分で嘘や適当な作り話とわかっていながら言い散らすライターはなおさら我慢ならない、という所であるらしい。
巻末に年表と対談がかなりな分量で付属していて買い得感とバラエティのある本になっているがそのぶんごちゃごちゃした感じにもなっている。
カバーの絵とデザインはもう少し何とかならなかったのだろうか。妻はこの本をかたずける時指先でつまんでいた。
・「内容は面白い」
志水一夫の著作は、どれも「へぇーっ」って情報が満載で、その点に於いては大変面白い。のですが、著者の「僕は、こんなことも知ってるんだぜ。ふふん」というオタク気質は、私には、気持ち悪いというか、気分悪いというか…著者には、かなりの著作物があるにも拘わらず、文章の構成が悪いので読み辛いのが難点です。もっと面白くなる本なのに残念。
・「非常にわかりにくい」
文章が凄く理解しにくい。なにか哲学書のように難しいし理解がしにくい。面白いと感じた部分もあったことはあったのだが、全体的に分の構成、まとめ方が不便に感じる。読んでいてもまどろっこしいの一言。もっと分かりやすく書けなかったのだろうか。
・「是非とも読んでおきたい一冊」
およそ国と国との間柄というのは、互いの好悪の感情を超えて、それぞれの利害関係の重なり合いによって規定されていくのが普通です。しかしながら、最近の両国民間の感情の高まりが示すように、こと日中の仲についてはそう簡単にはいかないようです。 本書は、1980年代なかばにおける日中関係の縺れを素材として、この極めてウェットな二国間関係について考察を加えたものです。教科書検定、靖国参拝、そして光華寮事件など、この時期の日中間には互いの琴線に触れる問題が山積みでした。筆者は、これらの事案の分析を通じ、中国の政府関係者や学生などが、如何なる材料に基づき、如何なる形で日本のイメージを描いているかを実証的に説明し、中国における対日認識のフレームワークがいわば独特の色彩を有していることを説き明かしています。 両国関係が一筋縄でいかないことは今さら論をまたず、また一般論として中国の人々が日本に対して必ずしも好意を持ってくれていないというのも先刻承知の話です。しかしながら小生などは、本書のように、いわば第三者的な立場から理路整然と整理した形で日中関係の難しさを提示されると、改めて大きなショックを受けたりします。「中国好き」の人には、読んでいて些か辛くなる向きもあるかも知れません。(もっとも、筆者は別に日本に対して好意的な立場なわけではありません。) 今後の日中両国、一体全体どんな方向に進んでいくのでしょう。そんなことを自分なりに考えていくためにも、是非とも読んでおきたい一冊です。
・「懐の深さに驚愕」
この本の分析が正しいかどうかはわたくしには判定は不可能である。内容それ自体よりも、わたくしにはアメリカという第三国の学者が、中国と日本という二国間の国家間の感情問題を研究し、そしてそれを日本で翻訳し出版した、という事実の方がむしろ驚きであった。このような基礎研究の上にアメリカ外交が成り立っているのだとすると、日本の外務省が太刀打ちできるわけはないのでは。また、このようなある意味マニアックな本を文庫化して出版した岩波書店に敬意を表したい。 もちろん、書かれた時代が若干古いために、「新しい歴史教科書」が出現した今となっては特に中国の対日感情はかなり異なっているだろうが、それまでの歴史的経緯を知る上でも有益な書物と思われる。
・「なぜ捏造は見逃されてきたのか」
この書物は、「日本考古学史上最大の汚点」と呼ばれた捏造(余談だが、本来の読みは「デツゾウ」である)事件の全容を、様々の側面から説き明かした力作である。かつて私は、T教授(藤村新一氏にも何度かお会いになっている)からこの事件の全容をお聞きしたことがある。そこで初めて、この事件が、「考古学」にはとても収まりきれない「大事件」であったことを思い知らされたのである。
本書で語られることは、おもに、「捏造発覚その後」の検証の記録と、過去に藤村氏を手放しで絶賛していた著者自身の「反省」である。捏造石器を逐一検証していく過程は、素人の私にも理解できるように説いている。そしてまた、藤村氏の人間的な側面(それは果して虚像であったのか)に触れたうえで、まだ藤村氏の「真実」が語られていないことについても言及している。いまだに、「闇」の部分が多いのである。それでもなお、著者はこの事件を、「科学的精神」を見直すうえでの反省材料として今後に生かそうとも提案している。
ところで、忘れてはならないのは、スクープ記事で「捏造」をすっぱ抜いた新聞社も、藤村氏の「虚像」をつくり上げるのに荷担したという意味で「加害者」であった、ということである。T教授も、卑劣きわまる取材攻勢と虚偽に満ちた報道とに閉口しておられた。そういった事実も、本書ではやんわりと批判するかたちで語られている。
・「科学のあり方を問うた捏造事件」
教科書の記載をも揺るがした旧石器捏造事件について、本人も関わったという方の自戒を込めた本。なぜ捏造が見抜けなかったのか、十分な解答が示されているわけではないが、真摯に受け止め、考えていこうという態度がうかがえる。 例えば、必要以上に文系と理系を分離した日本の大学のあり方など、いろいろな日本の学術研究の世界の問題が指摘できる。特に考古学に限らず、多く分野にとっても示唆的な点が多い一冊である。
・「捏造事件の全貌がコンパクトに」
藤村氏による捏造のことはニュースで知っていました。でもそれが、20年に渡り2000点もの石器を「遺跡」に埋め込んでいたという、極めてスケールの大きいものだったということを、この本を読んで初めて知って衝撃を受けました。「遺跡」そのものが、藤村氏によるでっちあげであったことも少なくないという。この本は、捏造発覚後の検証プロセスを丁寧に追いかけるという手法で、捏造がいかにして行われたのかを明らかにしています。土日祭日をすべて費やして現場を踏査するという藤村氏の努力と熱情が、歪んだ方向に向かった結果としての大がかりな捏造。その反面、考古学の知識の乏しい藤村氏による捏造は、極めてずさんで矛盾だらけのものだったことが後の検証で明白になります。では、なぜそれに専門の考古学者、マスコミは20年もの間だまされつづけたのか。なぜ藤村氏の子供だましであからさまな捏造が野放しにされつづけたのか。この本で反省を持って語られるその構図は、学問という営為が政治社会的な性格を強く持ち、それゆえにときに盲目になってしまうこともありうるという恐ろしさを警告しています。他の学問も人ごとではないはずです。捏造の検証に関する技術的な説明は、詳細ではありますが多少重複もみられ、私のようなずぶ素人にはちょっとくどいかなと思いました。でもそれを差し引いても、最後まで一気に読める面白さはありました。
・「他山の石とすべし」
旧石器遺跡捏造事件の実体は他愛のないもので、藤村という一人のアマチュア考古学者が、古い地層にそれより新しい時代の石器を埋め込んでいただけなのである。しかし、専門家も含めてほとんどの人が彼に騙され続け、教科書までもがそれを事実としてしまうのである。本書は藤村氏の人間的な側面にも触れながら、事件の全容を明らかにしようと言うものである。ただ、不自然な点がたくさんあったにもかかわらず、藤村氏は正しいという前提に立った上で辻褄が合うように解釈し、疑念を抱いていた人たちに対しては反論をせずに無視してしまう考古学会やマスメディアの体質についての言及はあっても、行政側の責任については紙幅の関係で触れられていない。
考古学という分野以外でも、藤村氏のような人間はこれからも出てくるに違いない。同じ轍を踏まないためにも、この事件を他山の石とすべきである。また、著者も藤村氏に騙されていたうちの一人であるのだが、自分自身への反省を踏まえながら原因の究明を行った点は高く評価したい。
・「気分が悪くなる衝撃の汚点の記録」
藤村新一と親しかった、1947年生まれの、日本人類学会・考古学研究会等の会員である、朝日新聞社の科学ジャーナリストが、2003年初めに刊行した新書本。2000年11月初頭、日本前期旧石器発見の大権威(「ゴッドハンド」!)である民間考古学者藤村新一による遺跡捏造問題が、毎日新聞社のスクープにより発覚し、日本考古学界に戦後最大の激震が走った。藤村は200にわたる旧石器遺跡に関わり、100%に近い確率で発見を繰り返し、次々と教科書を塗り替えていた。人類学や地質学等からの疑惑の声にもかかわらず、多くの遺跡を見てきた藤村の考古学界での権威、実際に「大発見」を目撃した考古学者の感激、地元やマスコミの熱狂の中で、懐疑の声は無視され、鉄線条痕・押圧剥離・ガジリ等の「あってはならないもの」が見落とされ、逆に自然地形の誤認など、「もとからなかったもの」が「発見」されてしまった。スクープ以後の学界挙げての検証作業の結果、藤村自身の告白を上回る、ほぼ彼のかかわった遺跡全ての捏造が明らかになりつつあり、遺跡認定の取り消し、教科書・研究書の書き換え等が相次いだ。関係者の衝撃は深く、著者自身も藤村の20数年にわたる虚偽を見抜けず、そのまま報道してしまったことに、深い反省と憤りを表明している。考古学のみならず、学問そのものの「客観性」の基盤の危うさ、われわれが不可避的に持たざるを得ない「予断」の怖さがよく分かる、研究者を志す者にとって気分が悪くなるような汚点の記録と言える。なお、考古学界は遺物の真偽の判定規準の確定や3カット撮影等の形で、この教訓に学んでいる。また、著者は幾度も「それにしてもなぜ捏造は行われ、なぜ気付かなかったのか」と問うているが、結局納得のいくような回答は本書では得られていない気がする。
・「自称霊能者の跋扈する現状を危惧する」
日本史に限らず、台湾、古朝鮮からシェイクスピア、アーサー王にまで至る本格的な論考は楽工社から出たとは思えないほど(失礼)で、読み応えは十分。 この書を重厚なものにしているのは、単なるあげつらいでなく、偽史を「運動」として捉え、その精神に迫っている点で、初期オウム真理教に関する著者の経験に基づいて「自称霊能者のお説教や自称霊能者の尋ね人探しが高視聴率をとる」現状を危惧する終章は重い。
・「邪馬台国もソロモンの秘宝も徳島にある!?」
◆邪馬台国は阿波である
邪馬台国がどこであったかはいまだ決着がついておりません。畿内説と九州説が代表的です。それ以外にも長野、愛知、山梨、石川、千葉などがあるそうです。エジプト、スマトラ説まであります。 わたしの住む四国・徳島も「邪馬台国=阿波説」を持っております。
◆ソロモンの秘宝は阿波にある
それだけでは、ありません。ソロモン王の秘宝があるのです。西日本第2位の高さを誇る剣山という名峰が徳島の奥地にあります。そこに埋蔵されているという。 ソロモンは紀元前10世紀の王です。当時の日本はまだ縄文時代なのですが。
◆で、ほんとうなの?
地元民からすれば、わくわくする話です。ただ気になるのは、その信憑性。発掘調査もあったようですが、証拠になるようなものは発見されておりません。
さて本書には『日本史のブラックホール・四国』という章があり、阿波邪馬台国説、ソロモンの秘宝説について詳しく考察されておりました。以下「」内が引用文です。
「結局、ここに邪馬台国ありき、ソロモンの秘宝が剣山にある、という結論が先にあって、その理由を後からこじつけているだけ。それから根拠を求めていく論法である」
◆コンプレックス思考
「剣山のソロモン秘宝説と、邪馬台国四国説の論法には類似点がある。地元への誇りや愛情よりもむしろ強烈なコンプレックスだった。 主流・中央から疎外された孤立感は、主流・中央に加わりたいという渇望、さらには歴史を引っ繰り返して自分たちこそ真の主流・中央なのだと主張したい心理へと容易につながりうる」
◆地方民だけでなく、ニッポン人の性向
「拝外思想にとらわれ外国へのコンプレックスに苦悩する日々から、一気に日本こそ世界の盟主という妄想に飛びつくことを繰り返す日本人の性向である。 日清・日露戦争直後の高揚、第二次大戦開戦時の世論、バブル経済の時がそうであった」
・「歴史についてのトンデモ論考」
「偽史」に焦点を当てたトンデモ論考集。抱腹絶倒の一冊というよりは、だいぶ質実剛健なハードな方向に軸足を置いたものだ。 原田氏は「トンデモ」世界から足を洗ってと学会に転向した経歴を持つだけあって、豊富な経験と透徹した視点が特徴だ。 本書はシオン議定書、古朝鮮問題、ニセ天皇、石器ねつ造など比較的よく知られた話題からマイナーなものまで歴史に関するものを取り上げ、客観的に分析して、なぜそんな「トンデモ歴史」が生まれたか切り込んでいく。 すでに冷戦終結やオウム事件から一回り以上の年代が経ち、トンデモ歴史を笑ってすますことはできない。正しい歴史哲学や認識が日本人に共有されているとは到底言えない。そこに一石を投じる一冊だ。 むろん、この本を鵜呑みにするというのもそれはそれで問題がある。まずは一次史料にあたり、自分の頭で考え、自分の言葉で論じることだ。それがすべての第一歩だ。
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