クローディアの秘密 (岩波少年文庫 (050)) (詳細)
E.L.カニグズバーグ(著), E.L. Konigsburg(原著), 松永 ふみ子(翻訳)
「12才に絶対読んで欲しい等身大の冒険物語」「この年頃にしか出来ない冒険ってあるのです」「知的で、オシャレな児童文学」「まず松永訳のこの作品から」「メトロポリタンミュージアム」
悪童日記 (ハヤカワepi文庫) (詳細)
アゴタ クリストフ(著), Agota Kristof(原著), 堀 茂樹(翻訳)
「読解力を試される傑作」「深く残る作品です。」「びっくりしました」「痛みを知り、忘れないこと」「ハードボイルド!!」
ある放浪者の半生 (詳細)
V.S.ナイポール(著), 斎藤 兆史(翻訳)
「不甲斐ない。」「始められない物語」「身勝手、綱渡り、なりゆきまかせの魅力。人生も小説も。」
ムーン・パレス (新潮文庫) (詳細)
ポール・オースター(著), Paul Auster(原著), 柴田 元幸(翻訳)
「美しい孤独」「中年も読める青春冒険物語」「男女を問わず心にしみる"青春小説"」「全てが繋がり、関係し合い、回帰する」「衝撃・感嘆・そして沈思黙考に至る」
最後の物たちの国で (白水Uブックス―海外小説の誘惑) (詳細)
ポール・オースター(著), Paul Auster(原著), 柴田 元幸(翻訳)
「なんと不思議に味わい深い」「終わらない脱出」「別の世界からの便り」「何が一番大切か」「リアルに幻想的」
遠い場所の記憶 自伝 (詳細)
エドワード・W. サイード(著), Edward W. Said(原著), 中野 真紀子(翻訳)
「確かに興味深い本です、が・・・」「根無し草」「語る能力」
憑かれた旅人 (詳細)
バリー・ユアグロー(著), 柴田 元幸(翻訳)
「ハリポタとはまた違ったファンタジーの世界?」「人生を棒に振ってしまった中年男……なのか?」「塵もつもれば、塵の山となる」
闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1) (詳細)
コンラッド(著), 中野 好夫(翻訳)
「パニックをもたらす白人の「恐怖の文化」ここにあり」「「白人の責務」の崩壊」「二度、三度読むと良い本だと思います」「ある航海士の話」「闇はどこまでも深く」
見えない都市 (河出文庫) (詳細)
イタロ カルヴィーノ(著), Italo Calvino(原著), 米川 良夫(翻訳)
「幻想都市の歩き方」「あらゆるものを抱きつつ、全てをとり零していく都市」「都市は存在するのか」「移ろいゆく都市と叙述」「さぁ、どうだか。」
東方綺譚 (白水Uブックス (69)) (詳細)
マルグリット・ユルスナール(著), 多田 智満子(翻訳)
「美しい日本語訳」「物語の巨星の手による、ちいさな珠玉集」「息を飲む」「満足至極」
インド夜想曲 (白水Uブックス―海外小説の誘惑) (詳細)
アントニオ タブッキ(著), Antonio Tabucchi(原著), 須賀 敦子(翻訳)
「インド夜想曲」「どんな幻想小説よりも幻想的な、あり得ない旅の記録」「鏡の向こう」「漂泊の想いを抱きつづける人へ」「カルヴィーノ的な「軽さ」に満ちた傑作」
夜の果てへの旅〈上〉 (中公文庫) (詳細)
セリーヌ(著), Louis‐Ferdinand C´eline(原著), 生田 耕作(翻訳)
「この世界と和解できない人へ」「一線を越えて「果て」へと向かう」「退屈とは無縁。」「絶望と欲望」「中二病 課題図書」
路上 (河出文庫 505A) (詳細)
ジャック・ケルアック(著), 福田 稔(翻訳)
「青春そのもののほろ苦さ」「"IT"を求める旅」「道、旅の名作」「ビート文学の巨人名作」「Always,be on the road」
ジャック・ロンドン放浪記 (地球人ライブラリー (014)) (詳細)
ジャック ロンドン(著), Jack London(原著), 川本 三郎(翻訳)
「あの日私は若かった」「野生の本能を取り戻したくなりました」
エペペ (詳細)
カリンティ・フェレンツ(著), 池田 雅之(翻訳)
「ハンガリー不条理SFの傑作」「異世界での孤立」
ノーホエア・マン (詳細)
アレクサンダル ヘモン(著), Aleksandar Hemon(原著), 岩本 正恵(翻訳)
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・「12才に絶対読んで欲しい等身大の冒険物語」
作者カニグスバーグさんは12才にこだわっている。その理由は「まだ大人ではない、けれどもう子供ではないことを大人に認めて欲しい年齢」だからだという。だから、精巧に組み立てられた物語に彼らを登場させて、大人顔負けの行動力を発揮させ、少し複雑な胸の内を語らせる。この物語の主人公クローディアも12才。締まり屋の弟ジェイミーを巻き込んで、汚くてみじめではない家出を計画する。彼女の本当の願いは「今までとは違う自分になって家に帰ること」、それは思いがけない方法でかなえられることになる。
30年以上前に書かれた物語だが今読んでも新鮮そのもの、大人が読んでもわくわくするし、こんな結末は誰にも予想できないはずだ。残念なことに、私がこの物語を知ったのは彼らの両親の年齢になってからだが、12才の頃この本を手にしていたら、もっと愉快で自由闊達な10代を過ごせたかもしれないと思う。
12才をめぐるさまざまな事件が社会を騒然とさせている今こそ、彼らにこんな等身大の冒険物語を読んで欲しいと思う。きっと興味を持ってもらえると思うし、2人を応援したくなるだろう。めくるめくファンタジーはもちろん読んで楽しいけれど、魔法や呪文を使わずに自分の願いをかなえる方法を考えるのはもっと楽しいことだから。
・「この年頃にしか出来ない冒険ってあるのです」
1968年ニューベリー賞受賞作品。なんとこの年は、ひとりの著者の2冊の本(もう1冊は「魔女ジェニファとわたし」)が同賞を争ったとのこと。
理屈抜きで大好きです。子供の頃から何度も何度も、それはもう舐めるように(笑)読み返したものです。今は読み終える度に、とても幸せな気分になりつつも
「クローディアと同じ12歳にはもう戻れないんだなあ…」などと、既に大人になってしまった自分を切なくも感じたり。
クローディアとジェイミーは、この物語が終わった後も“あの秘密”をずっと守り続けることが出来たのでしょうか…?
(既にどなたか書いてらっしゃいますが)
NHK「みんなのうた」で、大貫妙子さんが歌う『メトロポリタン美術館』はこの物語をモチーフに作られました。
・「知的で、オシャレな児童文学」
数多くある児童文学の傑作の中でも、この作品は、最も都会的で、知性的で、かつ、オシャレな作品ではないかと思っています。都会のど真ん中でもこんなにも素敵で、わくわくすることが出来る冒険(?)を展開することができるんだという夢(アイディア)を与えてくれた。そのことだけでも、十二分に価値ある作品なのに、この物語はそれだけでは終わりません。この作品には、12歳の少女が持っている特別の輝きと同時に、大人の女性の熟成されたテイストも見事に閉じ込められており、おまけに、もっと素敵なミステリー(秘密)まで読者に与えてくれるのです。E.L.カニグズバーグの作品は日本にもいっぱい紹介されているのですが、どれか1冊だけということなら、間違いなくこの作品だと思います。・・・ 蛇足になるかもしれませんが、『クローディアと貴婦人』というタイトルで映画化もされており、往年の名女優イングリット・バーグマンが素敵に登場してきます。誰の役を演じているのかは、この作品を読まれた方ならばすぐにお分かりになると思います。
・「まず松永訳のこの作品から」
この作品は30年以上も昔のものですが、未だその魅力少しも衰えず。子供にとって秘密を持つことが、日々の暮しをいかに豊かにするか、ということを的確に描いた、児童文学のまさに手本のような物語です。美術館で、天使の像の足の裏を視てしまうのは、まさしく子供ならではの視線。カニグズバーグはデビュー当時から偉大素晴らしかった。
しかし、近年の作品の邦訳は杜撰であり、原書の馥郁とした文章とはほど遠く解釈からして大きく外れているとのこと。 以上の事実をふまえ、岩波書店は、カニグズバーグ作品のうちいくつかを全面改訂にすることにふきったと聞いています。
ですので、カニグズバーグを良いと思われた人は、まず松永ふみ子訳のものを!
・「メトロポリタンミュージアム」
ドキドキワクワク。そんな言葉がまさにピッタリなストーリーです。優等生でしっかり者のクローディアは、長女と言う理由でいつも不当な扱いをされ、毎日の生活にウンザリしてしまいます。そこで「自分を変える」為に思いついたのが「家出」。それも用意周到に、練りに練った「家出」。
その彼女が好奇心旺盛でお金(小遣い)持ちの弟ジェームズを連れて家出した先はNYはメトロポリタンミュージアム。クローディアはバイオリンのケース、ジェームズはトランペットのケースに服を詰め込んで・・・。そしてそこで彼らが出会ったのが一体の天使の像。それは果たしてミケランジェロの作品か否か。
果たしてその像がクローディアを変える事が出来るのか・・・。ここまで書くと「あら?」とお思いになる方もいらっしゃるかもしれません。トランペットのケースにバイオリンのケース・・・天使の像・・・そして舞台はメトロポリタン美術館・・・そう、NHKのみんなの歌でお馴染みの「メトロポリタンミュージアム」というあの名曲は
この物語が元になっているのです。簡単なストーリーではありますが、読み終わった後に不思議な余韻が残る、そんな一冊です。
・「読解力を試される傑作」
第二次世界大戦のさなか、都市から田舎の小村に疎開した双子の男の子が、祖母である老婆と暮らすことになる。そして老婆と子供の心の交流が始まる、などというありがちな展開は全くなく、双子は性悪の老婆に奴隷のようにこき使われ、村人達からも冷たい扱いを受ける。生き延びるために強くなることを強いられる生活の中で、二人は自分たちに起きたことをノートにつづることにした。そのノートがこの本である、という設定になっています。文章をつづる際、双子は自分たちに一つのルールを課します。それは、主観や感情を排して事実のみを記載すること。だから、この本の中で人々の思いは一切説明されません。なぜ彼らはそんな行動をとったのか、なにが起きたのか、どう思ったのか、それは書かれている事実をもとに、読み手が想像していくしかありません。読解力を試される小説です。ある人にとってはただのエログロ、ある人にとっては痛切な反戦の書と、読者の感性によっても印象が違うと思います。簡潔な文章なのに、いや簡潔だからこそ、想像力が刺激され情景が強烈にイメージされる。魔力のような文章に圧倒されました。本書には続編の「ふたりの証拠」と「第三の嘘」があり、それらを読むと違う世界が現れてくる仕掛けになっています。そちらはそちらでお勧めなのですが、この1冊だけ独立した小説として心の中に取っておきたいとも思ってしまいます。あえて続編を読まないという手も・・・などと言ったら作者のファンに叱られそうですが。ラストの衝撃がいつまでも胸に残りました。
・「深く残る作品です。」
私が『悪童日記』を初めて読んだのは小6の時。あまりの衝撃に、2晩ほどずっとこの本の事を考えていました。戦争の中、淡々と語る何のモザイクのない「ぼくら」が見た世界。その中で生き延びるための術。読み終わったとき、何かが心に残りました。今でも読み返す事が度々あります。読んで良かったと思うと同時に、この本を買ってきた姉には本当に感謝してます。読まなきゃ損。といっても個人的には過言ではありません。
・「びっくりしました」
簡潔な文体。簡潔な章立。衝撃的な結末。本書読了後の正直な感想は「びっくりした」です。主人公の双子の少年達は大人たちの行動を冷静な目で見つめている。その冷静な目は怒り、悲しみ、憎しみ、異常さ、死を問わず、いつも変わることのない目線である。自分達を鍛え上げ、自分達で生きる術を身に付け、成長していく。そして衝撃のラスト。気分を害する読者もいるかもしれませんが、現実とはこんなものなんですね。美化したり、言葉で誤魔化したりする場面が、生きていると一杯ありますが、事実を書き連ねると本書のようになってしまうんですね。そして我々はその現実を見つめる「練習」をしないと、ちょっと気を許すと「お花畑の住人」になってしまう危機があることを理解しなければなりません。本書はその練習にもってこいです。現実から目を離してはいけないことを、我々に強烈に教えてくれます。
・「痛みを知り、忘れないこと」
「ぼくらはどんなことも絶対に忘れないよ」(本文より)
彼らは自分たちのことを「ぼくら」と呼び、二人が別のことをする時は「ぼくらのうちの一人ともう一人」という言い方をする。お互いを分けるための名前は必要ないのだと思うと、なんとも不思議で、そして少し不気味でもある。
彼らの環境に慣れるための「練習」には、物言わぬ批判を感じる。おそらく戦争下では、痛みや悲しみや、略奪や殺しといったことに対して、心を麻痺させないとやっていけない。人々は知らずのうちに、心に麻酔を打ち込み、忘れようとする。それは、忘れたほうが楽だからに他ならない。
対して、「ぼくら」は「絶対に忘れない」という。痛みを知り、そして忘れない。それは、麻痺したことを認識せずに、何もかもを忘れようとすることよりも、ずっとシビアな選択だと思う。
人の欺瞞や忘却、人間の持つ闇に対して、目をそらさない子供たち。20世紀、多くの人々は傷ついたのに、すでに私たちは多くのことを忘れてしまっている。いろいろなことを、はっと思い出させられる一冊。
・「ハードボイルド!!」
ハードボイルド小説というジャンルは最近どうなっているのでしょうか?
・「不甲斐ない。」
現存するノーベル文学賞受賞者の作品を読んでみたいというので、なるばく新しいところでナイポールを選びました。とにかく面白いです。インドとイギリスの街並みが交互に視界に浮かび上がり、情けないオヤジ、小汚い母親、狡猾な妹、ダラダラした主人公、不埒な友達、優しくて寂しい女などなど、明らかに登場キャラクターの人選が異例だと思います。半ば梶井基次郎やカミュを感じさせる主人公の放蕩と放浪の日々。オクスフォードも卒業できたはずだし、たぶん優秀な小説家にもなれたはずなのに、一瞬の哀れな閃きに惑わされ彼は大事な物を次々捨てていく。それでいて不甲斐ない自分の人生を「流浪」のように形容して、周囲や自分自身を惑わしながら生き続ける。ナイポールがこの作品の制作にあたって見つめた世界は、普段我々が見てみぬふりを試みる人生に対する倦怠感がポイントだと思います。「そんなことして何になる?」と勤労や勤勉をあざ笑いながらも、心の底でその努力が出来ない自分を恥じる。そしてマトモな人間に憧れながらも、ズルズルと妻を欺き快楽の園へと落ちていく。こんなを人間誰が主人公にしようと思うでしょうか?やはり人間誰でもたまに人生に倦怠感を感じて、何をしていいのかと、いても立ってもいられなくなることがあるでしょう。でも何とか乗り切って忘れていく。しかしその中でのみ生きる人間もきっといるはずです。そんな話です。
・「始められない物語」
「すべてが変な方向に進んでいく。世界はそこで止まるべきであったとしても、果てしなく動いていく」(本文より)
「HALF A LIFE」が原題のこの小説には、「半分半分」の人、「半分の人生」が数多く登場する。主人公は、故郷インドで作家サマセット・モームの名前をもらい、イギリスで友人の真似をして過ごし、アフリカで妻の土地になじもうとする。どこでも「自分の人生」を生きている気がしない。自分の人生を始められない。主人公はそんな生き方に嫌気がさして、また新しい場所に行こうとするけれど、その先に果たして「本当の自分の人生」が待っているものなのだろうか?
この物語は、「始められない物語」である気がする。世界は動いているし、物語は続いているのに、それでも何も始まらない。それがどうにも歯がゆいし、ままならない。
この本を読んでいると、自分の人生を生きることが、ことのほか難しいことのように思えてくる。植民地経験がなく、文化分裂の少ない日本では、どっちにもつけない人々が感じる、足もとの危うさのようなものは、あまりなじみのあるものではないだろう。それでも、中途半端な人生を送るもの悲しさは、分かる気がする。
・「身勝手、綱渡り、なりゆきまかせの魅力。人生も小説も。」
原題のHALF A LIFEは、主人公の人生前半のことではなくて、どっちつかずの「中途半端な生」のことを指しているのではないか、とこの本の訳者斉藤兆史さんは「あとがき」で書いている。カリブ海トリニダード生まれのインド移民三世ナイポールの描きだす小説世界は、ちょっといいようのない、なんとも捉えがたい、身勝手で自堕落でなりゆきまかせの人生を歩むウィリーとその周囲をとりかこむ、同様に雑多で説明しにくい生を生きる人々の世界でできあがっている。そして物語自体もそのように、つまり説明しがたい進み方ですすむ。インドでの少年時代の、父親のウィリーへの十年にわたる身の上話ではじまった小説は、アフリカの妻のもとからヨーロッパに逃げ帰った四十一歳のウィリーの、妹への語りのさなか、しりきれとんぼのように終わるのだ。人生において最良の部分は終わってしまったのに、自分はなにもしていない、隠れているのが長過ぎた、と妻アナに語っている挿話のところで。ウィリーへの父親の語りの中の、父親の生き方も、ふに落ちないところが多い。まずいことになって、その罪のつぐないのために寺院の庭はずれで沈黙の行(いじめられないため)をしながら乞食生活を送るうち、人々の尊敬を集める(押し黙っているせいで)にいたり、果てはイギリスの作家サマセット・モームの訪問まで受け、その著書にまで記される・・・ウンヌンカンヌン。三章からなるこの小説は、第一章が「サマセット・モームの訪問」、第二章が「第一章」、第三章が「再訳」である。これが日本語訳で300ページ弱におよぶ小説のすべて。2001年ノーベル文学賞受賞作家の最新小説は、思いつきと綱渡りと身勝手さで破たん寸前の中途半端な生き方を、そこぬけの率直さ(インドにとっては外部の目となる越境作家ゆえの、公平にして冷淡な視線による)で語りぬいた新しいスタイルのお伽話だとおもう。
・「美しい孤独」
主人公マーコは多感で知的な青年だ。孤独である。家族に先立たれる。孤独である。友人に世話になり、恋人ができる。それでも孤独である。奇妙な老人の世話をし、それから自分のルーツがひも解かれていく。かつ孤独である。これほど孤独がこころやさしく、甘美で、酩酊するものだということを、この本によって教えられたように思う。ストーリーを覚えてしまっても、こういう感覚に触れたいからもう一度読みたい、と思わせる数少ない文学の一つであるような気がする。
・「中年も読める青春冒険物語」
なんと言っても面白い。原書と翻訳のスタイルが見事に一致していると思う。ノリのいい文体で、読者を一気に小説世界に引き込む。次々と偶然に起こる出来事のおかげで、主人公は生き延びられるのだが、その偶然が、なんとなく必然に思えるのがいい。最後にたどり着く部分が、これまた圧巻だ。
・「男女を問わず心にしみる"青春小説"」
一息に読み、そしてもう一度ゆっくりと細部まで文章を味わいながら読んだ。モザイクのように組み合わされたエピソードの数々は、全体としてすばらしい"いわゆる青春小説"を編み上げているが、個別に見てもとても印象的なものばかりだ。柴田元幸の翻訳もすばらしいので、ポールオースターファン・現代アメリカ文学ファンでなくとも、また翻訳小説を敬遠しがちなひとでも、ぜひ読んで欲しい一冊だ。
・「全てが繋がり、関係し合い、回帰する」
僕は、この本に文庫で出会い、何度も手にしながら幾度となく挫折していた。手にしたきっかけは、書店員さんの手書きのメモが、平積みのこの本についていたから。「極上の物語をどうぞ」と書いてあったような記憶がある。 初めて最後まで読み通すことが出来て、今の感想を率直に言えば、やはり「極上の物語」であったというしかない。僕があまりにバカで、今まで中途放棄してきたことがもったいなくもあり、人生の危難に直面している今だからこそ、読めたのかなあとも思っている。 この物語は、地上で唯一の肉親であった伯父の死をきっかけに、主人公が自死を選ぶに等しい退嬰的な生活をはじめ、ふとしたきっかけから出会った女性に救われ、奇妙な介護の仕事に就く。そこから、不思議な縁の回転が始まり、自身の出自の謎が解き明かされていく。 過去の断片的な事柄が全て繋がり、お互いが関係しあっていたことに気付きはじめながらも、作中の全ての登場人物たちと別れてしまう。そこには、東洋的な一期一会が寓意的に描かれているかのような錯覚さえ覚えさせられる。そして、最後全てを手に入れながら、全てを失った主人公は再びゼロ地点へ…。原点回帰的な、東洋的な終わりをつげる。 もう一度読みたい。これが今の僕の偽らざる心境だ。
・「衝撃・感嘆・そして沈思黙考に至る」
現代日本にとっては極めて現代的な内容である(のではないだろうか)。とくに、耽美的であり虚無的な20代の青年には、その衝撃はかなり大きいのではないだろうか。いつか読むべき本ではなく、『今』読むべき本だと思う。
・「なんと不思議に味わい深い」
途中でやめることができなくなる。読んでいるときは、ふーんとか思って読んでいるのだけど、読み終わった後、いい映画を見た後のように、どうしても、この「最後の物たちの」世界から、離れられなくなってしまう。染み付いて離れなくなってしまう。一度経験することをお勧めします。
・「終わらない脱出」
アンナが綴る、届くはずもない、読まれるはずもない手紙に描かれる絶望的な世界、というのはキングの「刑務所のリタ・ヘイワース」を思い出す。かの小説の主人公たちが刑務所の中で出会う悪夢的状況は、アンナが遭遇する悪夢と似通ったものがある。でも決定的に違うことは「刑務所...」のアンディとレッドは「外は違う」ことを知っている点。
アンナの置かれた状況はさらに容赦ない。あまりにアンナにとって不利で、勝負ははじめから分かっている。「刑務所...」のアンディが希望を持ち続け最後に偉大な勝利を収めるのに対し、アンナはどうだろう。アンディは、きっとまだどこかで生きているだろう、と思われるのに対し、アンナは読み終わった直後にもうこの世にはいないだろうと、思われてしまう。でもそんなアンナもささやかながらしぶとく希望を持ち続けている。超人的なアンディより親しみやすいアンナが持ち続ける希望、それは私にとって、より人間の持つ希望の価値を訴えるものであった。
すごい悲しい話なんですが、いい話です。しみじみしたいときにお読みください
・「別の世界からの便り」
次がない。これでおしまい。「最後のもの」というのは、「最後のものたちの国」とは、つまりはそういうことだと思う。さっくりと言ってしまえば、絶望である。主人公アンナ・ブルームが置かれている立場はまさにそれで、四面楚歌、360度矢面という情景描写がぴったり来るような地獄の中にいる。
それでも、訳者が言うように、この作品の根幹に流れているのは「希望」である。社会の中にあるさまざまな価値観を、削ってけずって、極限までそぎ落としてシンプルにしたからこそ見える人間像が、ここには描き出されている。
物語はえんえんと続く静謐な悪夢のようだが、最後に一気に収束する。最後の数行がとにかく秀逸。この本が出版されたということは、つまりは一通目の手紙は届いたということなのだ。アンナ・ブルームの約束が果たされることを、願ってやまない。
・「何が一番大切か」
物が溢れる社会に生き、充分すぎる程物を持ちながら、まだ物を欲しがる。そういう社会に生きていると、何が一番大切か見失ってしまうような気がする。この作品は、今の私たちに何が一番大切か気づかせてくれる。また、様々な困難を乗り越え、小さな希望を信じ懸命に生きていこうとする主人公アンナと作品の中で触れ合うことで、物事に対して投げやりにならず前向きに頑張ることを教えられた。
・「リアルに幻想的」
淡々としたアンナ・ブルームの語りで全編が流れていく。とても面白い話だった。そして非常にリアルに幻想的である。これは近未来だなんてわたしは全然思わない、これは今であり、もうなくなってしまった国の話…今まさになくなろうとしている国の話。そしてなくなろうとしたそばからぎりぎりのところでつぎはぎだらけでまだそこに居る。安楽死クリニックに暗殺クラブ。どれもが突拍子も無いように思えるけれど、とても生々しい。
・「確かに興味深い本です、が・・・」
昨年惜しまれつつ亡くなったエドワード・サイード教授。 私も同教授の数々の著書を読んで、学ぶところ大です。 この本は、パレスチナ人の中に生まれながら「エドワード」と名づけられ、自らのアイデンティティーを求めてさまよい続けた人の物語です。
ただ、一つだけはっきりさせておかねばならないのは、彼の人生は典型的なパレスチナ人の人生とはあまりにもかけ離れている、ということです。 簡単に言えば、多くのパレスチナ人がイスラエルに追放され、難民キャンプで肩を寄せ合い暮らしていた頃、「エドワード」は「ハーバードの修士課程中」の「夏休み」に、「ギリシャ」を旅行していたわけです。 それ自体は悪い事ではないのですが、そういった人でなければパレスチナ人の「語り部」にはなれない、(難民は生きるのに精一杯で勉強したり本を書いたりする暇も余裕もない)というのが、実はパレスチナ人の本当の悲劇なのかもしれません。
・「根無し草」
原題は"Out Of Place"である。「場違い、どこにもない場所」というこの表題の適訳は何だろうか。本書を読むと、単に故郷のことだけを指しているのではなく、家庭そのものからもサイードが疎外感を感じていたことがわかる。そこで、わたくしは「根無し草」というのが適当な訳ではないかと感じなくもない。 サイードというと「経歴詐称」という問題が指摘されているが、悪意あるメディアの捏造だということである。この本で最も興味を惹かれたのが、サイードがパレスチナの擁護者として活動するようになったきっかけがユダヤ教のラビのひとことだったという下りである。この部分を読んだだけでも、ユダヤ人を一緒くたにしてはならない(当然、立派な人もたくさんいる!)こと、サイードもそのことをきちんと認識していたことがわかる。わたくしにはこの部分だけでも価値があった。 故郷と呼べる場所もなく、両親からも無条件の愛情をもらっていたとはいい難いサイード、晩年は無数の見知らぬひとびとの大きな支持は彼に届いていたのだろうか。
・「語る能力」
非常に明晰な頭脳と、高い言語能力をもつ成人の自由連想記録として非常に興味深く読みました。彼自身によるオリジナルの言葉で(英語で)改めて読み直したいものです。
・「ハリポタとはまた違ったファンタジーの世界?」
ふとしたきっかけでこの人の本を読んでからすっかりファンになってます。今回もまるで夢でも見ているかのような奇妙なシチュエーション、意外な自分や相手の反応が満載です。円をなぞって真丸を書くのでなく、円を書こうとしてどれだけ奇妙な形に書けるか、ということを頭において読むときっと楽しめますよ!
・「人生を棒に振ってしまった中年男……なのか?」
短篇小説って苦手である。人物描写などが足りなくて、ひとつの話にやっと没入できたと思っていると終わってしまって次の新しいエピソードが始まってしまうし。もちろん僕のテキストの読み方が未熟であることは否めないが、それでもレイモンド・カーヴァーやローリー・ムーア、グレイス・ペイリーなどの短篇は面白いと思えるので、単に好みの問題なのかもしれないのだけれど。本作『憑かれた旅人』で数少ない好きな短編作家のひとりにバリー・ユアグローも仲間入りを果たした。
本作は「旅」をテーマにした短篇集でユアグロー作品に独特な、奇想天外な設定のエピソードが満載である。「よくもまあこんな話を思いつくよなあ」と柴田元幸氏も訳者あとがきで開陳しているが、それが読んでいる僕らとはまったく関係のないことではなく、いつかどこかで自分が抱いた妄想につながっている気がしてならない。人生は旅にたとえられることが多いが、本書を読めばあなたも自分の人生を追体験し、自分の妄想に言葉を与えることができるようになるかもしれない。
でも待てよ。柴田氏は指摘する。「……どうやら人生を棒に振ってしまったらしい中年男の悲哀が切実に浮かび上がってくる」と。僕がこの作品に強く心惹かれ共感してしまうのは、すでに「人生を棒に振ってしまった中年男」の域に足を踏み入れてしまったからなのか……
・「塵もつもれば、塵の山となる」
『「聞きたいわけないでしょ・・・孤独な根無し草の男が、へんてこな、大方は無駄に過ごした生涯に、あれこれの災難に巻き込まれた話なんて!」
さよう、かなりの物事が、その一言に要約されていることは認めざるをえない。』(本文より)
極短編とでもいうべき、原稿2,3枚ほどの旅の断片が、積もりに積もって、ある男の人生を物語る。それぞれの話には連続性がまるでなく、舞台はどこかで聞いたことのあるような、でも実際にはそんな国などないのではないかと思わせられる、異国情緒に彩られている。
この物語のおもしろいところは、そんなファンタジーのような世界をうろつきながらも、根無し草の旅人の自尊心と劣等感、人との親密なようでいて浅い付き合い方が、妙にリアルであるところかもしれない。バックパッカー経験のある人は、この奇妙な感覚に、少なからず覚えがあることだろう。作中で、男も言っている。「あなたの姿を語っているんです」と。
きちんと生活をしている兄弟の元から逃げ出す「訪問」、旅の物語の最中であるのに、いきなり作者の影らしきものが登場して、「そんなまやかしではなく本当の自分について書け」と文句をつけてくる「邪魔」など、旅の物語の本音がかいま見える文章が挿入されているところがおもしろい。特に「邪魔」は、小説の中で、こんな邪魔な文章はかつてあっただろうかと、妙に感心してしまった。
塵も積もれば山となる。塵の山となる。男の人生は、まさにそんな感じである。
・「パニックをもたらす白人の「恐怖の文化」ここにあり」
本書を読んですぐに思いついた本がある。映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』でも登場している、バリー・グラスナーのThe Culture of Fearという本だ。根拠のない恐怖をマスメディアなどを植え付けられたアメリカ人は、実際には存在すらしない恐怖に怯え、パニックに陥って悲劇を生み出していることを、社会学的に検証している本である。
このコンラッドの『闇の奥』に描かれている白人たちも、もさしくこうした脅迫観念にとりつかれ、現地人や現地人慣習に対する無知・無理解のせいで、ちょっとしたことでパニックを引き起こしてしまう。このような白人の芊脅迫観念は、しばしば現地人の大量殺戮とその正当化の摂理に通じる。この『闇の奥』がコッポラ監督の大作『地獄の黙示録』の原案になったと言われるゆえんである冷戦期、アメリカは共産主義の「ドミノ理論」に対する恐怖感のあまり、アジアの小国を侵略した。また、アメリカの建国初期には、インディアンの襲撃を恐れた入植者たちが、インディアンをほぼ絶滅に追いやった。(ここで通底しているのは、未知のものに対する怯えであり、これを取り除き秩序を作り出す自らの力に対する過信であった。本書に登場する白人たちも、自身の体に沁み付いている「恐怖の文化」のために、自らの人間性を破滅させてしまった哀れな人間たちであった。
・「「白人の責務」の崩壊」
二十世紀直前のアフリカ、ベルギー領コンゴ。雇われ船員のマーロウはある交易会社に依頼されて、コンゴ奥地で消息を絶った腕利きの現地支配人クルツの探索に向かうが・・・・。
戦争映画『地獄の黙示録』の元ネタになった小説で、コッポラの映画同様、まったく奇妙で脈絡がなく、ただただ粘りつくような「恐怖」の感覚だけが迫る怪作です。
これはヨーロッパの帝国主義のひとつの寓話として読めます。ヨーロッパ帝国主義が体現していた意義や道徳=現地支配人クルツと読み替えて、その帝国主義の崇高な道徳の使者だったはずのクルツがアフリカの奥地でどのような狂気に侵されていったか。著者のコンラッドは実際に船乗りとしてコンゴへ行ったことがあり、そのとき帝国主義の現実に直面した体験がこの小説を書かせたそうです。また、本書全篇にただようある種の崩壊感は、世紀末の一ヨーロッパ人としてコンラッドが感じた深刻な何かだったのかもしれません。
ま、帝国主義に何らかの道徳だの意義があったと(ご当人らはかなり本気で)信じ込んでいたヨーロッパ人が、そんなものはなかったと気づいたときの自己愛的なショックだ、と言えばそうなんですが。日本も帝国主義の経験があるので、我らが祖先がアジアの植民地支配の現場で何を考えていたか、というのも興味はあります。
・「二度、三度読むと良い本だと思います」
植民地主義などの作品背景はすでに他の方々がお書きになっているので、そのほかに気づいた点を。
重厚な文体の原文ゆえに、この文庫版を読むのも私はかなり骨が折れました。ちなみに、誤訳も散見いたしましたので、できたら原書を片手にお読みになるのが良いと思います。
各ページに込められた情報量が凄まじいので、二、三度お読みになるのがお勧めです。私なぞ、今手にとっても「ここの場面・言葉はあのシーンにつながっているのか」と考えさせられることしばしばです。
難解ですけれども、読後に確かな「手ごたえ」が残る一冊だと思います。クルツの死に際の言葉の意味は何なのか……。
・「ある航海士の話」
ヨーロッパ人といわゆる「未開人」の場を設けて ヨーロッパ人が考える理念としての帝国主義と 現実としての暴力の帝国主義がよく分かりました。 しかし、人間の心理の奥などとかなり重いテーマが作品の底を流れていると思いました。 かなり難しい作品だと思います。
ちなみに作者コンラッドは自由自在にラテン語を英語にしてしまう技を持っていました。 そのため翻訳者をかなり悩ませています。
・「闇はどこまでも深く」
今まで数々の映画監督が映画化を試みたが、断念したと言われる作品。(「地獄の黙示録」はあくまで翻案)それほど、この作品に描かれている「闇」は深い。
「過ぎ行く船の甲板から陸地を眺めることは、なにか謎でも考えるような興味がある」と、主人公マーロウは、密林へ行く途中で語る。船と対岸の間の流れ、そして密林の河の流れは、普通の生活をしている人々と自分達をどうしようもなく分けてしまった「一線」の象徴であるように見える。
クルツはその一線を飛び越えて、さらに奥へと踏み込んでいってしまった。おそらくマーロウもまた一線を越えてしまったが、クルツと違い、まだここに留まり続けている。マーロウがクルツの婚約者についた嘘は、クルツのようになりきれないことの証明である。
闇という闇を集めて凝縮して、沈黙させたような本。語ってはいるが、じつは何も語っていないような。そんな底なしの不安を覚える。
・「幻想都市の歩き方」
内容紹介にもある通り、本書はマルコ・ポーロが旅で見聞してきた都市について、フビライに語るという形式を取った小説だ。著者の想像力が組み立てた、摩訶不思議な都市の数々は、それぞれが独立した物語としても展開できそうな強い個性を持っていて、飽きさせない。小説を進行させる、ポーロとフビライによる独特のテンポの漫才(!?)のような不思議なノリも心地いい。奔放な奇想が詰まった傑作のコンパクトな文庫サイズでの刊行を喜びたい。
・「あらゆるものを抱きつつ、全てをとり零していく都市」
散文詩と都市論の融合したような小説です。マルコ・ポーロは過去・未来・現在に浮かんでは消えていく諸都市の見聞をフビライ汗に語ります。
マルコ・ポーロとフビライ汗の対話によって枠物語となっていますが、読み進めていく内に読者はさらなる都市の入れ子の中へ迷い込んでいくようです。これらの見た事も聞いた事もないような、複雑な都市群は極めて空想的でありながら、都市の本質そのものでもあるように思えます。空気のような軽さと生々しさ、常に相反するものがお互いを取り込み合う空想都市。
訳も美しいです。修飾語で編み上げられたような原文を想像します。果てしない空虚と飽和にめまいのするような幻想小説でした。
・「都市は存在するのか」
マルコ・ポーロの『東方見聞録』のパロディー。マルコ・ポーロの異国記述は真実ではない。むしろ都市の記述など正確ではありえないのだ。そもそも都市とは何なのかを考えさせてくれる。
・「移ろいゆく都市と叙述」
美しくも醜い都市について、マルコポーロがフビライ=ハーンに語る形式で描かれています。この小説はその淡白にして優美な描写と移ろいゆく断片を眺めて楽しむ小説だと思いました。
時代性、物語性から離れた情景的断片で構成され、瑞々しい情景、剥き出しの暗部、都市の記憶を語りながら、
それぞれの都市が断片として、物語を創出することもなく流れていくナレーション。
私は読み終わって、その情景がフラッシュバックする不思議な感覚にとらわれました。ちょっと不思議な小説も読んでみたいと思っている方に、お勧めします。
常用漢字外の漢字にルビが振られていないものが多く、最初の方は読みづらかったです(慣れれば読めます)。
それと文庫本としては値段が高く感じられたので星は4つとしました。
・「さぁ、どうだか。」
カルヴィーノという作家はまったく私と合わないらしく、読んだでもすぐ飽きてしまうことが多いですね。これは通読しましたけど。まぁ訳の問題もあるのでしょうが。例えば、作風や世界的に評価の高まって来た頃に急逝したところとかなど、安部公房などに似ているかとも思うのですが、どうも、安倍に見られるような面白味がこの作家には欠けるですね。私の芸術の評価基準などは要は面白いか面白くないかなどであり、面白くないものは私の評価は低いです。これは絵画にしろ芸術にしろそうなのですが。まぁこれは私の独断でふwマルコとフビライという、また萌える設定ではあるのですが、どうもねぇ。まだ、「宿命」のようが面白かった。
・「美しい日本語訳」
東欧、中国、そして日本といった東方の国々を舞台にした短編集。日本のお話は、晩年の光源氏をめぐるラブストーリー。外国人が描いた日本には違和感を覚えることが多いが、この話はすんなり読み進めることができた。どの物語にも不思議な魅力があるが、翻訳文とは思えない日本語のすばらしさによってますます輝いていると言ってよいだろう。特に第一話の美しい文章には圧倒された。
・「物語の巨星の手による、ちいさな珠玉集」
~永い歳月をかけて珠玉のように磨き上げられた上質な物語が、素晴らしい翻訳家の手により美しく端正な日本語に生まれかわった、希有な例。~~世に奇譚の数は数多あれど、これほど美しく、滋味にあふれて、ひとの精神を根底からゆさぶるちからをもった物語はそうあるものではない。教訓くさくもなく、迷信的でもない。宗教的でもなく、神秘的世界観に汚されることもなく、ただ純粋に人間という存在と、その運命のふしぎが詩のように語られる。作者のまなざしは人間存在をするどく透過しているが、その~~視点はさらに永劫の時へとそそがれる。そのまなざしのスケールの大きさは圧倒的で、たとえば日本人が世界に誇るべき奇譚のひとつに中島敦の『文字禍』などがあるが、この名作でさえユルスナールの作品の前では、どこか子供っぽくみえてしまうほどだ。ボルヘスでさえ、この巨星のもとでは青臭く感じてしまう。~~ユルスナールの作品は名作揃いなのだが、いささか大部で読むのに体力が必要なものもあり、誰もが親しむというわけにはいかない。その点この作品集は、ごく短い物語が数編収められているだけなので、奇譚という親しみやすい題材ということもあり、どのようなひとにも安心してひろく薦めることができる。しかしどの短編も長年にわたり推敲がかさねられていて、~~たいへんな時間がかかっており、まさに宝石のように磨き上げられている。再読、三読、興趣つきない一冊。~
・「息を飲む」
いわゆる西方から見た「東方」は、どこか異国情緒めいた空気に満ちている。日本が舞台、源氏が主人公の物語もあるのだが、どこか別の国の物語のように感じる。
しかしそれが、いわゆるオリエンタリズムだとは、一概に言い切れない。この作品ですばらしいと思うのは、東方の持つ湿気というか、水の気配を含む、青い空気感を描き出しているところだ。まるで、宝石が水底で時折瞬くような、極彩色が揺らめいている雰囲気とでもいうか。とにかく文章と、そこに描き出される空気が見事なまでに美しい。息を飲む。
第一話「老絵師の行方」は、まさにそんなユルスナールの世界観を味わうことができる。極上の架空の世界の空気を、読むのではなく、感じることのできる作品。
・「満足至極」
読みたい本が 希望どうりに入手できて満足です。甲子夜話 のような 面白い本でした。
・「インド夜想曲」
最初はよくあるインド好きのヒッピー文学と思いきや、インドはただの舞台でしかなく、その内容はボルヘスの作品のように幻想と思考と知性に満ちているといえるだろう。インドの独特の風土を利用しながら、いつの間にか自分がどこにいるのかわからなくなるような不思議な感覚、友人探しという読むものを引き付けるミステリー性を備えながら、哲学的な命題を探るような短編を重ねあわせたような奇妙な旅行記。最初に書かれた無意味とも思える命題が結論のあっけなさを納得させる循環性はポーの作品と近いような気がした。とにかく幻想的で非常に面白い作品である。訳者の須賀氏が解説で述べているように、「だまされたと思って」是非一度読んでいただきたい本の一冊である。
・「どんな幻想小説よりも幻想的な、あり得ない旅の記録」
タブッキの小説は幻想的と言われるが、他のどんな幻想小説にも似ていない。この小説も神秘的なイメージに満ち満ちているが、真に非現実的な事件は何も起きない。ただ淡々と、「ぼく」がインドで出会う人々や事物が書き連ねられているだけである。ところが麻薬のように病みつきになるタブッキ独特の語り口と、核心をさらけ出さずほのめかすにとどめるという文学的詐術があいまって、ただ奇想天外なだけの幻想小説では太刀打ちできない強烈なイメージの「場」が形成される。タブッキは幻想を描写しない。タブッキは読者の心の中に幻想や神秘を作り出す。タブッキの「レクイエム」には「ある幻覚」と副題がつけられているが、彼の小説にはどれもまず一個の「幻覚」として構想されているような気がする。結局す!べては誰かの心の中で起きていることという印象が強く、それが作品全体にやはり幻覚めいた浮遊感を与える。「インド夜想曲」はそんなタブッキの幻覚がもっともおいしい状態で味わえる傑作である。名人芸に達している「さりげない」幻想性の匙加減といい、各々の断片的エピソードの核をなすイメージの美しさといい、絶品としかいいようがない。更にタブッキのもう一つの特徴である小説全体に施された文学的詐術=仕掛けも見事。最終章を読み終えた読者は個々のエピソードの神秘を越えた更なる迷宮へと連れ去られる。タブッキは凡庸な作家のように「説明」(=ご丁寧な謎解き)をしないので、ただ煙に巻かれただけと感じる読者もいるかも知れないが(私も最初はそうだった)、妙に気になって何度も読み返すうちにはまってしまう。それは軽やかで短いタブッキの世界の裏側に、読者のイメージをどこまでも広げて行く懐の広さがあるからだ。タブッキは癖になる。
・「鏡の向こう」
インドの混沌とした空気が伝わってくる。読者は主人公と共に失踪した友人を探しながら、スラム街のホテルやすえた汗の匂いのする夜の病院など、インド各地を旅するだろう。そして、最後の章に行くにしたがい、自分がインドにいるのではなく、鏡の向こう側に迷いこんでいることに気づく・・・そんな感じにさせられる作品である。なんとも不思議な読後感。とてもおもしろい。
・「漂泊の想いを抱きつづける人へ」
語り口が絶妙だ。最初の一行から、すうっとどここかから手が伸びて襟首をつかみ、物語の世界へひきこまれてしまう。冒頭で主人公がキレてタクシーを途中で降りてしまうくだりや、ふいに出会った醜悪な容姿の予言者とのやりとりなど、その情景とともに主人公の怒りや畏れが、その場の匂いや主人公の体温とともに伝わってくる。何かを求め、探し、迷っているのだけれど、その何かがわからないといった青春期特有の逡巡に苛立つ若者にもぜひ読んでほしい。
・「カルヴィーノ的な「軽さ」に満ちた傑作」
だいぶ前に初めて読んだ時は、謎めいた暗示やイメージに満ちてはいるものの、思わせぶりなだけでとくに何かが起こるというわけでもない、短くて軽い小説としか思わなかったような覚えがあるが、今回、何度目かに読み直してみて(短いからすぐに読める)、他にも何人かのレビュアーが述べているように、上等の酒をごく少量だけ口に含んだような、独特の味わいがあると感じた。
この何も起こらない短い作品の中に、インドという国のエッセンスのようなものが含まれていると感じるのは、インドについて誰もが語る極度の貧困や不潔さと、贅を凝らした超高級ホテル(タージ・マハルやオベロイは、世界的に見ても五つ星だろう)の調度や料理の華やかさが、ほとんど等価のものとして取り扱われていて、美と醜が渾然一体となったインドという広大な迷宮を夜の夢の中でひたすら彷徨い続けているような、ひどく曖昧で捉え難い雰囲気が生み出されているからだろうか。主人公が登場人物と交わす会話には、形而上学的な話題も多く登場するためか、どこかボルヘスの作品を思わせるような、衒学的な感触もある。
インドという「重い」対象を扱いながらも、カルヴィーノが言うような意味での「軽さ」を、これほどの水準で達成している本書は、紛れもない傑作だと思う。
・「この世界と和解できない人へ」
絶望の果てには奇妙な快楽が潜んでいる。それに気づいている人は少なくないのだが、それを追求するだけの勇気と機会と才能を持った人は極僅かしかいない。セリーヌは、幸か不幸か、その全てに恵まれていた。この『夜の果てへの旅』には特に気に入った一節があるのでここで紹介したいと思う。セリーヌを手に取るほどの人ならきっと共感してくれるだろう。「完全な敗北とは、要するに、忘れ去ること、とりわけ自分をくたばらせたものを忘れ去ること、人間どもがどこまで意地悪か最後まで気づかずにあの世へ去っちまうことだ。棺桶に片足を突っ込んだ時には、じたばたしてみたところで始まらない、だけど水に流すのもいけない、何もかも逐一報告することだ、人間どもの中に見つけ出した悪辣きわまる一面を。でなくちゃ死んでも死に切れるものじゃない。それが果たせれば、一生は無駄じゃなかったというものだ」
・「一線を越えて「果て」へと向かう」
たぶん人間には超えてしまったら戻れない「一線」みたいなのがあって、その向こうがおそらく「果て」なのだと思う。文章中に時折出てくる「果て」のフレーズはどれも、深い森の奥から聞こえてくる嘆きのようにじわりと重く響く。
主人公とその友ロバンソンは、生涯かけてその一線の淵をさまよい歩く。人生という夜の中、一箇所にとどまれない放浪者が、果てを見すえつつ旅をしている。一線を越えるか超えないかの話といい、アフリカという舞台といい、なんだかコンラッドの「闇の奥」を思い出すところがある。
戦争を否定し、偽善を否定し、友も家族も愛も嘘だとはねつける。ある意味、正直で潔癖なのだろう。だけど否定ばかりのその先には、いったい何が残るのか。
わかるけど共感したくはないなと思う自分は、精神的に健康なのか、それとも偽善に毒されているのか。あるべき姿、希望はこの本にはない。だからこそ、ある意味では普遍的だといえるのかもしれない。
印象として、夕闇に沈む光景のような本。後ろには町の光があるのに、自分は光のない道の先ばかりを見てしまう。その姿は虚しく、そして物悲しい。
・「退屈とは無縁。」
この本のイントロダクションと表紙を眺めると、「いやぁ、コイツは相当にヤバそうだなぁ」と思われるかもしれませんが、実はそうでもなくって、非情に文体も物語の構造も分かり易く、恐いとか辛いというよりは、カッコいいという印象の方がずっと強い作品でした。上下巻合わせて約800ページの長篇ですが、飽きないし、疲れないし(文字を読むという意味では)、ストーリーを見失わないし、素晴らしい出来だと思います。
この物語は100%自伝的に書かれているのですが、セリーヌは自らの失態・カルマ・堕落の数々を余すことなく暴露します。いやむしろ、誇大に自らの汚さ、人間の汚さを着色している節さえあり、もちろんそれは悪者になりたいというような子供臭い目的でそうされたものではなく、それが彼にとってのリアリティーであったのであろうと読み手に共感を感じさせる、かなり異質タイプの作品だと思います。不思議と、あまり気分のいい話を聞かされているわけではないのに、読んでいてどっと落ち込むような気にはならず、むしろその人間臭さに手を叩きたくなるような体の物なのです。
まるでフランスのアングラ映画的ストーリーで、例えば日本で言うなら若かりし頃の大島渚タイプの映画監督などがこぞって映画化しそうな美しさで、とくにラストの車中での発砲の場面などは古典的な文学スタイルとは一線を慨しています。この作品を読むと、国内外の幾人かの作家がここからかなり影響を受けていることが見て取れます。公式に公の場で語り継がれるような名作とは対極にありながら、その存在感は決して今後数十年では色褪せないと確信させられます。
・「絶望と欲望」
ここまで人間を卑しく、否定的に語ったものを他に知らない。読中、読後私は厭世観から来る空しさ、鬱屈さとに悩まされ、苦しむばかりだった。まるで主人公のバルダミュ同様に私も徹底的な絶望の果てしない旅をしていたように感じてならない。
絶望の中に僅かの希望もない、どの人間がどんなことを言ようが悪であることに変わりないという主張が一貫して綴られている。客観的に傲慢じゃないかと思われるロバンソンの後半の言動だが、彼に関わった、あるいは関わっている人間たち、社会も、俗悪で無責任で冷たく残酷なのであり、それ故に彼のその言動が論理性を帯びて、むしろ当然の主張だと納得できてしまう。
また、人間の根本的な悪は欲望に通ずることを本書は示していると言えよう。金銭欲、性欲、食欲、病気からの快方欲、名誉欲、自由欲など、本書の至るところに人間の欲望は見受けられる。しかし、そこでは欲を満たせば新たな欲が生まれる欲の連鎖が展開しているのであり、それはとどまるところを知らない。そして、本書の登場人物たちは欲の奪い合い、欲の陣地取り、言わば欲取り合戦を様々な場面で演じているのである。
・「中二病 課題図書」
十代で読んでいたらどうなっていたんだろう、と二十代前半ではじめて読んでそう強く思い、最近三十代で読み返してみました。どこをとってもぐっとくる。別に年なんて関係ないさと思うけども、やはり二十代前半で読んでおいて良かった、と思いました。あーあのときのあの感情って、ここからのぱくりだったのか自分、と感じてみたり、いやはや、やはり文学は読み返して、なんぼです。
・「青春そのもののほろ苦さ」
僕がこの本に出会ったのは、ちょうど大学を卒業して半年くらいが経った頃だと思います。僕はフリーターとしてぶらぶらしていました。丁度そんな時にこの本に出会い、なにかやる気に満ち溢れたのを覚えています。旅を通して主人公の心証の変化、いわゆる大人への変化が実体験と微妙に重なり深い感銘を受けました。旅・友人・酒・女・音楽を通して60年代の若者を描写していますが、全然古くないです。この本を読むと、そんな実体験もないのに、なぜか自分の青春と重ね、ちょっとほろ苦くなります。そして、無償に旅(もしくは青春)を経験したくなります。この本を読んで、何故か僕は友人と四国へ行きました。今となってはほろ苦いいい経験です。
・「"IT"を求める旅」
~第三部の第四章、サンフランシスコの酒場で狂熱ともいうべきジャズのライブ演奏を友人たちときいたあと、第五章の冒頭で、この小説のヒーロー、ディーンはサル(私)にこう言う、”Now, man, that alto man last night had~~ IT.”
この小説のテーマがはきっきり示された瞬間である。
“IT”とは何か。それは第四部のなかであきらかになります。第四部の第三章の中程でディーンはこの小説のクライマックスであるメキシコへの旅についてこう語る。”Man, this will finally take us to~~ IT!”
自動車旅行とジャズのライブシーンにあふれたこの小説の白眉は、第四部の後半、国境をこえたメキシコの売春宿で乱痴気騒ぎをしたあと一路メキシコシティーへと向かう旅路にあります。そこで彼らが何を見、何を感じたか・・・、そして”IT”とは何だったのか。すべてがあきらかになります。
第一部の東から西へのヒッチハイク旅行(ディーンは何故~~かあまり登場しない)、第二部のニューオリンズにオールド・ブル・リー(「裸のランチ」のウィリアム・バロウズがモデル)を訪ねるアメリカ南部への旅、第三部のサンフランシスコからニューヨークへの今度は西から東への旅・・・、それらの旅の描写は非常に素晴らしいものがありますが、第四部のメキシコへの旅の序章、それも壮大な序章だったのいうのがよく~~わかります。
そして最終章である第五部、ほんとうに短い第五部ですが、アメリカ文学史上に燦然と輝く散文としての到達点をここに見ることができます。特に最後のパラグラフは英文として私がこれ以上の見事な文章はない、とおもっている一文です。ゆっくりと味わってください。~
・「道、旅の名作」
最初は、とりあえずビート・ジェネレーションについて知るための義務感で読み始めたので、退屈でしかたがなかったのです。でも、徐々に『路上』の世界に引き込まれてしまいました。残りページ数が減っていくにつれ、ぼく自身の読書の旅が終わる切なさで胸がいっぱいになりながら、でもぼくは旅の終焉を見届けようと、目を本のページに走らせました。そして読み終えたあとに、なんともいえない切なさに襲われました。楽しかった旅であれ、苦しかった旅であれ、旅の終わりはいつも切ない。ぼくはいつもこう感じてはいるのですが、『路上』はそのことをあらためて教えてくれました。
『路上』には人間が広大な大陸をあてどなくさまようことのすべて、繰り返される昂揚と落胆が表現されている。ぼくがこう言っても誇張ではないでしょう。過剰なレトリックを廃した、でも文学的で率直な名文の数々がちりばめられているので、傍線を引きたい文章、原書で確認したい文章がいくつもあり、実際に引いてしまいました。とにかく名作ですね。
また、主人公が自分をはっきりと「白人」に同一化したうえで「黒人」、「インディアン」と複雑な心理で邂逅、交流している個所もあるので、アメリカの旅文学という視点だけではなく、アメリカの文化研究という視点から読解してみても、興味深いことでしょう。
・「ビート文学の巨人名作」
米文学「ビート・ジェネレーション」代表作家の最高作品。ヒッピー全盛期には「聖書」として若者たちに愛読された。もっとくだけた優しい英語、もっと格好いいスラングが小説中に氾濫しており、発売当時は文壇から「文学冒涜」と罵られた。現在は名作。
・「Always,be on the road」
16の時、初めて「路上」を読んだ。まだ見ぬアメリカは とにかく格好良く、主人公たちの生き方は新鮮だった。20 才の時、「路上」を片手に初めて海を渡った。選んだのは 何故かインド。個人的にいろいろあって、打ちのめされて いた時だった。それからあちこち旅に出る生活が始まった が、ようやく「夢の地」アメリカへと向かったのは去年の事
だった。サンフランシスコで、シティライツ・ブックスや ケルアックSt.など一通り巡礼したのだが、何よりケルアッ クを感じたのは、ニューメキシコでレンタカーを借りて荒 野を走っていた時だった。広大なアメリカを実感した瞬間 だった。 この小説の舞台となっているのは、アメリカがかつてな い繁栄を享受していた'50年代。誰もが強く豊かで正しいア
メリカを信じていた。その一方で、若者たちは既成の価値 観に反発し、新しい何かを探し求めていた。 主人公サル・パラダイスは、親友ディーン・モリアー ティと共に広大なアメリカを西へ東へと放浪し続ける。二 人の女の間を揺れ動き、車を愛し、バップを愛し、人生を 愛するディーンと、それを見つめ続けるサル。愛すべき友 人たちとアメリカの現実。
'60年代に顕在化するアメリカの矛盾を先取りしたかのよ うな「アメリカに打ちのめされた」若者たちの姿は、21世 紀を迎えようとしている我々にも共感できるものだし、そ れが、出版以来多くの若者たちに影響を与え、指示され続 けてきた理由でもあるのだろう。この本を手に、いったい 何人の若者たちが「路上」へと旅立って行ったことだろ
う。永遠のバイブル。
●ジャック・ロンドン放浪記 (地球人ライブラリー (014))
・「あの日私は若かった」
1892年、ロンドンが16才の時から過ごした数年間のホーボー(列車に只乗りして国中を廻る放浪者)生活の様子を綴ったもの。今で言うロードムーヴィーの御先祖様みたいなものだが、ホーボーの生活を描いた小説はこれが初めてだったらしい。一文無しの身ひとつで列車に乗り込み、制動手達や警官達と執拗な追いつ追われつを繰り広げ、口先三寸で何とか飯にありつき、刑務所内部の有無を言わせぬ権力機構に何とか順応し、ホーボー仲間と交流し、或いは競い、はたまた出し抜き、世の様々な残酷さに直面して憤り、或いは怯え、機転と勇気で果てることのない気儘な日々を明日へと繋げてゆく………「最高の放浪者」のひとりとして、反社会的と云うよりは没社会的な智恵で過酷な状況を明るく生き抜くその姿は、正しくアメリカの文化英雄と呼ぶに相応しい。
この「地球人ライブラリー」のシリーズは大体同じ作りになっているのだが、地図、当時の社会情勢についての幾つかのコラム、巻末に参考文献リスト、そして各ページ毎に地理風俗等についてのやたら詳しい註がどっさり付いていて、それなりに労作である。唯惜しむらくは、註の大半が百科事典からその儘抜き書きしてきた様なもので、行間を埋めてくれる様な類いのものが少なかったこと。勉強にはなるが、それで読書の楽しみが増すとは限らない。
・「野生の本能を取り戻したくなりました」
「荒野の呼び声」「白い牙」の著者がこんな滅っ茶苦茶な生活を送っていたとは!!どうりで前述のような彼の作品(そしてこの作品も)が強烈な生命力にあふれているわけだ・・・と勝手に納得。
●エペペ
・「ハンガリー不条理SFの傑作」
カリンテイ・フリジェシュ(「そうはいっても飛ぶのはやさしい」の邦訳あり)の息子、ハンガリー作家カリンティ・フェレンツ1970年の作品。カフカ的な不条理・迷宮設定が好きな人なら、はまること請け合い。いかにも東欧的な作品です。学会に出るため飛行機に乗った言語学者がどことも知れぬ国に連れて行かれ、閉じ込められてしまいます。そこでは全く聞いたこともない謎の言語が話されていて、学者は生きて行くために必死でその言語を研究します。本作と似た設定の作品に、アメリカのSF作家マイクル・ビショップの「胎動」という短編があります(ハヤカワ文庫「80年代SF傑作選」に収録)。ある日突然世界中の人がばらばらの場所に転移してしまうという話で、冒頭の不条理設定に起因して登場人物が言語の壁にぶち当たるというところが共通しているので、読み比べてみると、国民性の違いが表れていて面白い。「胎動」では登場人物たちの行動力で、非常に前向きな話の展開を見せますが、「エペペ」では、主人公はただ右往左往しながらその世界の言語を研究するだけで、状況におおきな進展もないまま話は進むので、ひたすら受身、他力本願。確かにアメリカのエンタメ小説のような波乱万丈の展開はありませんが、これはそういうものを目指した作品ではないので、求めるものが違うとしか言いようがない。カフカ、安部公房、倉橋由美子、筒井康隆、ストルガツキー兄弟、創元SF文庫の「東欧SF傑作集」、ヤン・ヴァイスの「迷宮1000」、レムの「浴槽で発見された手記」、このあたりにピンと来る人、ひたすら振り回され続けて右往左往する悪夢のような不条理状況をじっくりと楽しめる人なら、読んで損はないでしょう。
・「異世界での孤立」
話の主人公は、ブダイという男。ハンガリー人の言語学者だ。彼は、ヘルシンキで行われる学会に出席するために飛行機に乗るのだが、違う飛行機に乗ってしまったがために、目的地とは違う場所に着いてしまう。そこは、数ヶ国語を操るブダイの話す言葉が全く通じない世界だった。当然、人々の話す言葉も、ブダイには全く理解できない。おまけに、人の数がものすごい。ブダイがどこに出かけても、凄まじい数の人・人・人なのだ。読んでいて息苦しさを感じるほどである。こういった異常な世界から、ブダイは脱出を試みるのだが…。
誰一人として自分と会話ができる人間が存在しない世界。自分もブダイと同じ迷宮に入り込んでしまったかのような錯覚が味わえた。文句なしに面白いという小説ではないし、退屈感さえ感じられる部分も少なからずあるのだが、この作品全編を貫いている、先行き不安な不透明感には、何故か惹きつけられた。
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