倫敦塔・幻影の盾 (新潮文庫) (詳細)
夏目 漱石(著)
「漱石の懐の深さを見せつけられる一冊」
二百十日・野分 (新潮文庫) (詳細)
夏目 漱石(著)
「格調高い名作」「漱石の率直な心情・理念に触れられる貴重な作品」「漱石の思想や厭世観がストレートに出ている初期作品」「初期とはいえ、テーマは一つ」
彼岸過迄 (新潮文庫) (詳細)
夏目 漱石(著)
「恐れない女と恐れる男ーー(「須永の話」 12)」「ブルジョアジーの憂鬱以上の辛さ」「地味だけど面白い」「好きです。」「そのまんま」
「内容がわからなくても気にせず読みすすもう」「彼一流の芸術諭が興味深い」「那美」「近代に対する呪詛がみてとれる」「明治39年(1906年)発表」
「漱石がどんなことを考えていたか少しわかります」「新しい境地」「漱石としては特異な作風〜だがBest3に入れたい」「夏目の本質」「漱石の暗い自画像」
虞美人草 (新潮文庫) (詳細)
夏目 漱石(著)
「登場人物が面白い」「漱石こそ最前衛である。」「人間が誕生する瞬間を描くー人間の条件とは「引き受ける覚悟」である」「目立たない名作。」「キングギドラ対モスラ&ゴジラ?」
「近代知識人の苦悩から漱石自身の苦悩へ」「生きることの苦しみ」「漱石自身の苦悩へ」「一人行く人」「おこがましいんですが・・・」
吾輩は猫である (新潮文庫) (詳細)
夏目 漱石(著)
「何度読んでも飽きない」「笑いの中にある厭世観」「大好き」「今でも笑えるユーモアのセンス」「猫の視点から見た人間」
「心理描写の奥行きの深さ」「未完、だが」「あの世で問い詰める」「際立つ人間模様」「最高の近代小説」
文鳥・夢十夜 (新潮文庫) (詳細)
夏目 漱石(著)
「漱石先生の本に感想を述べるのも野暮ですが」「たった数ページなのに」「ムンクの叫びに似て」「漱石は「幽体離脱」を体験していた!」「染み込む感じの作品+エッセイ」
それから (新潮文庫) (詳細)
夏目 漱石(著)
「それからの代助と、それからの日本は・・・」「漱石は怖いです」「「それから」は『それから』」「時を経てわかった小説」「僕の存在には、あなたが必要だ。」
三四郎 (新潮文庫) (詳細)
夏目 漱石(著)
「絵画的小説」「2 stray sheep」「青春の思い出」「また「会いたくなる」小説」「普通の人々のリアリズム」
坊っちゃん (新潮文庫) (詳細)
夏目 漱石(著)
「文学の香りと面白いストーリー」「今こそ、坊っちゃんのような生き方を」「新解釈を踏まえて」「清への思い」「ちょっとそこの坊っちゃん!」
こころ (新潮文庫) (詳細)
夏目 漱石(著)
「思春期に」「思うこと考えること」「ひきこまれる!」「明治のこころ」「生きている間に絶対一度は読んだほうがいい」
「十字架を背負った一生」「細やかな心情の描写が秀逸」「暗い、果てしなく暗い」「明治の東京の夜の静けさの中で」「美学者漱石の門。」
「心は三世にわたって不可得なり(江戸っ子夏目金之助)」「現実を知るきっかけに」「漱石作品で最もおもしろい」「意識の流れを追ったドキュメンタリー風の作品」「三部作のプロローグ」
● 夏目漱石
● 太い小説を読む
● 美しき狂気の人
● 中学生はこれを読め!第3回本屋のオヤジのおせっかい - 13/20
● 感想14
● NHKテレビ Jブンガク 2009年4月、5月(再放送10付、11月)
● お薦めの純文学
● 新潮文庫の名作
● 読んだ本(日本)
・「漱石の懐の深さを見せつけられる一冊」
漱石最初期のエッセイと小説の中間のような短篇7篇を収める。
英国留学中の漱石がロンドン塔を訪れ見学しているうちに、その血塗られた歴史に意識が飛んでいく「倫敦塔」、アーサー王の時代に題材を取り、騎士と敵国の姫の悲恋を描く「幻影の盾」、日露戦争で亡くなった友人に思いを馳せ、戦争を違った一面から見つめる「趣味の遺伝」など幻想的な文章ばかりがつまっています。読みやすさ、という意味では有名な作品のほうが上かもしれませんが、幻想性、ロマンチシズムという意味では、大変素晴らしい作品集です。あらゆる文体や題材を自在に書きこなす、漱石の怪物のような懐の深さを見せつけられる一冊です。
・「格調高い名作」
『二百十日』はともかくとして、『野分』は名作である。文章が格調高く、かつ巧妙であり、内容も求道的で迫力がある。漱石の作品のなかでは有名ではないが、ぜひ多くの人に読んでほしい。白井道也の言葉は、作者自身のメッセージとして胸に響いてくる。
「わたしも、あなた位の時には、ここまでとは考えていなかった。然し世の中の事実は実際ここまでやって来るんです。うそじゃない。苦しんだのは耶蘇や孔子ばかりで、吾々文学者はその苦しんだ耶蘇や孔子を筆の先でほめて、自分だけは呑気に暮して行けばいいなどと考えてるのは偽文学者ですよ。そんなものは耶蘇や孔子をほめる権利はないのです」
「岩崎は別荘を立て連らねる事に於て天下の学者を圧倒しているかも知れんが、社会、人生の問題に関しては小児と一般である。十万坪の別荘を市の東西南北に建てたから天下の学者を凹ましたと思うのは凌雲閣を作ったから仙人が恐れ入ったろうと考える様なものだ……」
・「漱石の率直な心情・理念に触れられる貴重な作品」
漱石の人生観・社会観が伸びやかな筆運びで綴られた二作を収めた好中編集。漱石のユーモア味と社会に対する厳しい批判精神が同時に味わえる魅力溢れる作品。
「二百十日」は豆腐屋出の圭さんと高等遊民らしい碌さんが弥次喜多よろしく阿蘇見物をする様をユーモラスに綴ったもの。圭さんが行なう華族や金持ちに対する痛烈な批判は漱石の心情そのものだろう。結末の「我々が世の中に生活している第一の目的は、こう云う文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない、平民に幾分でも安慰を与えるのにあるだろう」の言葉は感動的である。そして、こうした思想を単に述べるのではなく、二人の会話を中心に、ストーリー全体をユーモアで包んでいる点が漱石の文豪たる所以である。人口に膾炙している「ビールは御座りませんばってん、恵比寿なら御座います」と言う旅館の女中のセリフは何度読んでも抱腹絶倒。阿蘇近辺の風景描写も秀逸。「野分」は一転して格調高い文章で、漱石の日頃の鬱積を吐き出したもの。富貴が尊ばれ、公正な精神が軽んじられる矛盾に満ちた社会に対する義憤に溢れている。「白井先生=漱石」と考えて良いだろう。周囲の人間に自身の理念が受容されない塗炭の苦しみが文章から滲み出ている。「解脱して一人ぼっちになるしかない」と言う白石先生(漱石)の諦観の念は深い。高柳君はそこまで悟れずに煩悶する。恋にたゆたう金満家の中野君と三人三様の描き分けが巧みである。それにしても、真理を追究する論説の中で、美文調の比喩が次から次へと泉の如く湧いてくる漱石の筆力・教養は圧倒的である。また、登場人物の心象風景に合わせた自然描写も木目細やかだ。結末の白井先生の演説内容は漱石自身の主張と考えて良いだろう。現代にも通じる見識の高さと時代の予見性に感服する。
硬軟に別れた二作だが、いずれも漱石の率直な心情・理念に触れられる貴重な作品。
・「漱石の思想や厭世観がストレートに出ている初期作品」
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・「初期とはいえ、テーマは一つ」
『二百十日』は前作『草枕』とがらっと趣を変えて、気の置けない友人同士の何気ない会話で全編成り立っていますが、その主張はズバリ、「人間としての正しい在り方」です。明治という時代背景もあるのでしょうが、漱石の面目躍如と言ってよいでしょう。余りの直球勝負に敢えてまるで落語を聴いているような語り口を選択した所に作者のシャイな部分を感じるといったら言い過ぎでしょうか。頭数だけでなく、ボケと突っ込み(?)という役割分担も『虞美人草』の甲野さんと宗近君を彷彿とさせます。
『野分』は一転して「一人坊っち」である疎外感を真正面から扱います。人それぞれの立場・境遇をきっちりと描き分けていることに加え、この先漱石が晩年まで追い続けることになる主要テーマが朝日新聞社入社前の本作にほぼ揃っていることに驚きました。一生を掛けてぎりぎりと掘り下げて行った訳ですね。
「二百十日」から二百二十日に掛けて吹く強風が「野分」だそうで、だからこそ相次いで発表された2作がセットであったことを今の今まで知りませんでした。
・「恐れない女と恐れる男ーー(「須永の話」 12)」
一作ごとに<進化>をつづける漱石作品は、その全作品が問題にされる、という点で特別な作家です。以下、怠慢のそしりを受けるかもしれませんが、「彼岸過迄」の中でも特に評価の高い「須永の話」から、大変有名な文章を引用させていただくことにします。アフォリズムとして読んでも充分面白いと思いますが、これがどのようなストーリーの、どんな文脈の中に記されているか、是非ご自分で確認してみてください。僕は自分と千代子を比較する毎に、必ず恐れない女と恐れる男という言葉を繰り返したくなる。(略)僕に言わせると、恐れないのが詩人の特色で、恐れるのが哲人の運命である。僕の思い切った事の出来ずに愚図々々しているのは、何より先に結果を考えて取越苦労をするからである。千代子が風の如く自由に振舞うのは、先の見えない程強い感情が一度に胸に湧き出るからである。彼女は僕の知っている人間のうちで、最も恐れない一人である。だから恐れる僕を軽蔑するのである。漱石を読んでいる方にはお馴染みと思いますが、この男女観は漱石の全作品の根底に流れています。
・「ブルジョアジーの憂鬱以上の辛さ」
高等遊民として食うにあくせくせずに悠長に暮らしているように見えて、須永の自意識を持って、毎日、自己と対峙し、人生を生きるとすれば、漱石が神経衰弱に悩まされるほどになったことも想像に難くない。自意識が邪魔をして欲しいものも手に入れられず、親族の婉曲な断りを感じ、将来、千代子を失望させることにまで考えを回し、手を引く決意をするが、千代子には卑怯者と罵られる。他人の眼に映る自分を常に理解しつつも、単純に快活に振舞うことはできず、嫉妬に悩まされるきつさ。そして肉親の縁も消えてしまい感じる孤独。憂鬱以上の辛いものがある。それを、あたかも、親戚の居間に上がりこんだような近しさで、目の前で見ているようなドラマを感じることになる。
最後になって、そういえば敬太郎から始まった物語であったことを思い出させられるが、物事の周囲をぐるぐる回っているだけでは自分の物語を生きることはできないが、自分の人生を生きる重さも余韻として残る。
・「地味だけど面白い」
複数視点で語られる本作は、衝撃的な出来事で読者に強い印象を残すものではないが、漱石の文章の上手さによって繰り返し味わえる作品になっている。内容的には、大患後の方向を示すような、大いなるプロローグであると言えるだろう。 私が繰り返し読んで改めて感じたのは、当時の女性の言葉遣いが美しいということだ。もちろん、このようにしゃべっていたのは中流以上の階級だろうが、現代の女性たちとはとても比較できない。以下に、例として259ページの千代子の言葉を挙げる。
「だから他の云う事を聞いて、もっと居らっしゃれば好いのに」「そうするとまるで看護婦みた様ね。好いわ看護婦でも、附いて来て上るわ。何故そう云わなかったの」「妾こそ断られそうだったわ、ねえ叔母さん。偶に招待に応じて来て置きながら、厭にむずかしい顔ばかりしているんですもの。本当に貴方は少し病気よ」
・「好きです。」
なぜか夏目漱石の作品のなかでは、これが一番のお気に入りです。情景描写が特に優れているような気がします。
・「そのまんま」
驚きました。漱石の作品を読んだのは初めてだったのですが、現代社会のかかえる病巣をおよそ100年前に見事、看破しているではないですか!
「現代の日本の開化の影響を受けたわれわれは、上滑りにならなければ必ず神経衰弱に陥る」とは、現代の社会学者・宮台真司のいう「終わりなき日常を”まったり”と生きるしかない」、「『意味(=人生とは?などの哲学的思索)』よりも『強度(=テレクラやナンパなど繰り返してむなしいけれど一定の刺激を得られるもの)』を!」と論じているのと、まったく同じです。
この本を読むと、観念的であることの恐怖について、とても考えさせられます。
・「内容がわからなくても気にせず読みすすもう」
この作品はかなり有名だが、夏目小説への入門書としては、あまり適当でないかもしれない。なぜなら、この小説は読みにくい。文体や言葉が古くて難解で読みにくいし、ストーリーもとてもわかりづらいのだ。
『草枕』は、漱石のデビューから2作目の作品だが、なかなか挑戦的な内容になっている。彼は当時文壇の主流であったリアリズム文学の、まったく対極に位置する文学をここに提示したのだ。いわゆる「非人情」の小説。主人公の行動の意味を考え、彼の気持ちに同情して一喜一憂する必要のない小説である。
最初に「ストーリーがわかりづらい」と書いたが、実はこの作品には、あらすじらしいあらすじがないのだ。主人公の画家は、山間の温泉場にやって来る。部屋から外を眺め、風呂に体を浸し、気が向けば画の構想をねる。俳句をよむ。土地の人たちとおしゃべりする。これだけである。ストーリーを追ったりせず、「非人情」の境地でページをめくる。それが、この趣味性の高い小説を楽しむ秘訣である。
・「彼一流の芸術諭が興味深い」
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・「那美」
「猫」「坊ちゃん」「三四郎」などを先に読んでいたので、「草枕」を読んだときは少し驚きを持った記憶がある。
まず、漱石が色々な豊富な言葉を繋ぎ合わせ、紡ぎ出すようにして文章を書いていることに驚いた。漱石の文章は、上記の作品を読んでいてわりと明快なものだと思っていたからである。それが「草枕」では、がらっと趣が変えられている。「簡単」「難しい」で言えば「難しい」言葉や文章が多く見受けられるといえる。そしてそれぞれの言葉と言葉、文章と文章の間になにか深い関係があるようにも思えない。ただ一切は流れて行くように言葉が並べられている。だがだからといって、全体として「草枕」が読みにくいか、つまらないかと言ったら決してそうではない。むしろ逆である。
解説に「多彩に織られた文章の中を流れて行けばよい。立ちどまって、それらの言葉が指示する物や意味を探すべきではない。」と書かれているが、筋という筋がないからこそ、流れるようにして「草枕」を読んでみると良いかもしれない。
続いて驚いたのは、那美という女性の描き方である。ただ妖艶な女ということだけからの連想かもしれないが、那美から泉鏡花の描く女を思いだしてしまった。風呂場に現れる場面や、その他家の中で現れるところなど、鼻血が出そうである。失敬。「草枕」を流れるようにして読んでいく中で、那美の妖艶さが頭にこびり付くように残った。
・「近代に対する呪詛がみてとれる」
有名な冒頭の文章は殆どの人が暗唱できるほど知られたものと思う。しかし、「草枕」はそれほど長くないにもかかわらず、最後まで読んだ人は少ないのではないか? 恥ずかしながら還暦をとっくに過ぎた小生もその一人である。「非人情」の世界の小説、俗界を離れた仙人のような生活を賛美した小説かと思い込んでいたら、どうもそうではないようである。そしてこの小説に表れた漱石の漢籍や江戸趣味に対する素養、それに専門の英文学に対する薀蓄は大変なものである。注を参照しないと解らないことも多い。しかし、この小説が素養や薀蓄をひけらかすのが目的でないことは次第に解る。
草枕については、多く評論家、そして本カスタマーレビュアーの評価・解釈があるが、一点だけ私見を述べてみたい。即ち漱石の「西欧を規範とした近代化に対する呪詛」である。それはこの小説の最後に表れる主人公の独白に明瞭である。もう一度、読み直してみて欲しい。
・「明治39年(1906年)発表」
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」から始まるこの小説の目指すところは、ラディカルだ。 「恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。然し自身がその局に当れば利害の旋風に捲き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩んでしまう。従ってどこに詩があるか自身には解しかねる。これがわかる為には、わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ」。だから、「これから逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気が無暗に双方で起こらない様にする」。そして、その様にすると、「利害に気を奪われないから、全力を挙げて彼等の動作を芸術の方面から観察することができる」。これを、漱石は、「非人情」と呼ぶ。 この小説は、非人情を目指す。日清、日露と戦争が続き、次第に、智の働く者には住みにくい世の中になりつつあった、という事実が、背景にある。
・「漱石がどんなことを考えていたか少しわかります」
漱石の自伝的小説。東京帝国大学の職を捨て作家になった頃の自分自身に起きたことをベースに書かれている。夫婦の関係や親戚づきあい、借金の問題(主人公の健三(漱石)は借りに来られる方であった)、他人への妬み等、現代に置き換えても”フムフム”と考えさせられる内容になっている。漱石自身とよく似た設定になっている主人公と養父、実父との関係が物語の大きな部分を占めている。この中には実際に漱石自身が感じたことが書かれているのではないか。主人公の夫婦関係については漱石が実際に経験したことと、ほぼ同じことが書かれているであろう。漱石の考え方が、わかり大変興味深い。
なお、漱石が東京帝大の職を棄て作家になったことを”無鉄砲な決断”のようにいわれることがあるが、この小説を読むと帝大の職(教職)は、授業の準備や試験の採点等で大変で給料も安く、それに比べると作家の仕事は原稿料も良く、書くことが得意な漱石にとっては教職よりも苦労が少ないものだったことがわかる。
・「新しい境地」
彼岸過迄、行人、こころ、を経て漸く辿り着いた境地がここにある。漱石自身がモデルである健三は、運命に抗わず、運命を受容する生き方を選択する。漱石最晩年の心境・諦観が滲み出ている。しかし同時に、その心境を理解しうる読者には、静かに、漱石が生きる勇気を与えてくれているかのようである。
・「漱石としては特異な作風〜だがBest3に入れたい」
完結した著作としては漱石最後のもの。この後に「明暗」が来るが絶筆だからだ。自伝的小説といわれ、また、作風は一読して明らかなように、自然主義(花袋、藤村etc.)などにやや近い。色んな形態の小説を書いた漱石だが、当時の流行というかスタンダードみたいな書き方もやってみたのか。そういう意味では「漱石らしくない」。評価も分かれているようだが、自分の読後感としては、漱石のbest3には入ると思う。話は、主人公健三(漱石)が親族らに絶えずたかられる不愉快な生活を描いている。養父の島田やその女房らの不愉快感は格別。細君との冷え込んだ生活。舅との確執。それぞれとの感情の交錯、印象などが見事に描かれ、読者は我がことのように不愉快な感じを体現する。と同時に「世間」の一面が描かれる。それは見事だが、一方今日の感覚からすると、夫婦関係は、健三に非があると思える。散々不愉快に思っておきながら目の前の細君は健三の3番目の子供を孕んでいる。その辺りの感情的なことは何にも触れられていない。愚図で踏ん切りがつかず、理屈屋の割りに直ぐ相手の理不尽なレールに乗ってしまう脇の甘さ。その甘さを自覚してムキになる無骨。妙な自尊心だけ高い。だがそんなしょうも無い健三を描く漱石は、そのしょうもない自身の側面も知りつつ照らし出そうと懸命だ。有能で誠実で鈍臭い作家の風合いを感じてしまって、健三には舌打ちしても結局、漱石(健三)に親しみが増してしまう。終盤で実父に幼少期にとんでもない扱いを受けていることが急に描かれる辺りは、ちょっと唐突で、もっと作品の前提として手前で書いておくべきことではないかと、首を傾げる。だが、最後の終わり方はなかなか見事で、作品全体の姿としては、素晴らしい締めくくりだと思う。小説の締めくくりほど難しいものは無いのに。
・「夏目の本質」
夏目漱石と一緒に焼肉に行きたくない。注文するにしても、焼くにしても、食べるにしても、こと細かに規律を設けそうだ。こちらが越権行為をしようものなら、口頭でこちらを責めることはなくても、心の中で軽蔑の念を抱かれていそうで怖い。
夏目漱石と口論など、絶対にしたくはない。圧倒的な論理力ではがいじめにされた後、再び順を追いながら、こちらの非が明確になるまで徹底的に諭されそうで怖い。
ロジカルに特化した彼の頭脳はしかし、新種の論理の出現には、えてして弱い。自我の意識に目覚めながらもそれに振り回されるのは、自身に軸を見出せないからだ。繊細で、丁寧で、やさしく、プライドが強く、揺れ動き、飲まれ、悲しい。自分の弱さから、逃れることができない。そして、弱さを背負う強さがない。この「道草」という作品を読めば、夏目漱石の本質を目の当たりにする。
私はそんな夏目漱石と、二人だけで酒を飲みにいきたい。串カツなんかを食べながら。二度漬けはだめですよ、なんて言いながら。
・「漱石の暗い自画像」
暗い作品である。漱石の晩年の小説で、漱石自身をモデルにしたと思はれる主人公健三が、経済的に困った親族から金銭を求められ、苦悩する物語である。近代文学において、金(かね)は一つの大きなテーマである。ドストエフスキーの小説など、金を巡るトラブルを題材にした物が多いが、同じ様に金銭を巡るトラブルを扱いながら、それが引き起こす人間の摩擦、葛藤は、当然の事ながら、その国と時代によって、異なった物語を引き起こす。この小説(「道草」)の場合は、永く会はなかった親族が、主人公(健三)のもとに、金の無心に現れ、西欧的な個人主義の影響を受けた主人公(健三)の心に、日本的な親族との関わりへの嫌悪感を呼び起こすと言ふ物語に成ってゐる。漱石と言ふ作家を知る上で必読の作品であるが、何故か、少々中途半端な作品に成ってゐる事は、残念である。個人的な思ひ出であるが、この作品を読んでゐた頃、中学、高校時代の親友が若くして他界した。彼は、漱石を深く愛する友人であった。--この本(「道草」)は、彼の葬儀の際、私が、彼の棺に入れた本の一つである。
・「登場人物が面白い」
前半は文章が読みにくく感じたものの、後半からはまるでミュージカルを思わせるようなテンポの良さで、止まらなくなった。勧善懲悪色が強いとの批判もあるようだが、宗近の最後のメッセージはやや知識偏重の日々を過ごしている自分には強く響いた。ヨーロッパがアメリカに変わっただけで、当時と同じ問題を日本はまだ抱えている気がした。また藤尾の母のような人物は今日もうようよしているのでは。。
・「漱石こそ最前衛である。」
この漢籍に裏打ちされた文体、俳句をつなげたようなと、自ら称した音楽性。文化の最前列に列せられる文学である。「朝日新聞」に連載されていたとされるが、大衆性を全く無視し、俗気など一顧だにせず、洗練された文体で、難解といわれることを恐れずに、貫き通したのは、素晴らしいの、一語に尽きる。 またこれを受容できた明治時代という高踏さ。現今の下卑さは、平伏すしかない。…比べるのもおこがましい。
・「人間が誕生する瞬間を描くー人間の条件とは「引き受ける覚悟」である」
漱石の描く人間模様は微妙である。登場人物がさりげなく考えていることを、理屈立て細かく論じ、描いているのが著者の考えなのか登場人物のものなのか微妙である。風景は擬人化され、逆に人の心の中は風景として描かれ、これもまた微妙である。微妙さの中を歩むのが快適である。一方で微妙な感情を解りやすく露わにしてしまうことで、読み手の心に登場人物の心の中を突き刺してしまう。姜尚中先生が朝日の夕刊で述べているが(2007年10月10日)漱石は悩む人(悩む力を持った人)である。そこへ突破者としての宗近君が現れる、宗近君は悩む漱石を叱咤激励する漱石本人の姿である、私たちも漱石にならい、日々悩みながら自分の宗近君に叱咤激励してもらう必要がある。久しぶりに読んだが、やっぱり漱石は良い。ちなみに内田樹先生は、宗近君は悩める明治の若者に対する漱石からの回答であると言っている( 「おじさん」的思考 :晶文社)
・「目立たない名作。」
日本文学作家の中で個人的に一番好きなのが、夏目漱石。一般的には少し知名度は低いかもしれない『虞美人草』であるが、この作品も一読して感動できた素晴らしい名作である。
とにかく、人間というものがいかに純粋であり、いかに破壊的であり、そして、いかに愛を求めるものであるかを巧みに描き出している。
『坊っちゃん』や『こころ』、『吾輩は猫である』などとともに、読み継がれていくべき名作だ。
・「キングギドラ対モスラ&ゴジラ?」
大学教授の職を投げ打って職業作家として初めて世に放つ作品だけに、やる気満々です。肩に力が入り過ぎた辺りが後に作者自身のお気に召さなかったそうですが、私は「面白い物を書かねば!」と考えに考え抜いたであろう努力と意気込みを勝って未完の絶筆『明暗』と並んで好きです。
人物の造形が類型的且つ勧善懲悪過ぎるとの批判はあるでしょうが、だからこそ対照が際立っており、こちらは感情移入し易いです。勿論日本のクレオパトラたる藤尾がその中心で甲野さん・宗近君連合がそれに相対峙しているという〜キングギドラ対モスラ&ゴジラのよう〜記憶でしたが、今回読み直してみて小野さんの比重が意外と高かったことに初めて気が付きました。
女は弱い存在で、だからこそ男の庇護の下に置かれるべきといった今だったら袋叩きにあいかねない価値観を当然のように大前提としてますが、今から丁度100年前の明治という時代を「歴史」として実感するのにも役立ちますね。
・「近代知識人の苦悩から漱石自身の苦悩へ」
後期三部作の第二作。例によって朝日新聞への連載小説。
前期三部作に描かれた近代知識人の苦悩(自然と倫理or情念と理知、実務家のプラクティカルな能力とインテリの無為、無能力etc.)に関する問題がさらに推し進められて、より漱石自身の苦悩(人(と人と)の心の有り様や、信義や誠実の可能性、宗教観など、多分に(今の我々からすると)哲学的な問いかけ)が直接的に投影されている。
胃潰瘍の再発により、長期に亘る連載の中断をはさんだため、中断前と再開後の内容において、破綻とも言われかねない構成上の転換(語り手の変化)や、主人公(一郎)の心境の著しい変化などが見られるが、「彼岸過迄」を経た読者には、それほど気にはならない。
表見的には、「こころ」よりわかりづらく、とっつきにくいが、「こころ」を理解するためには、読んでおかなければいけない作品。
文章技術的には、相変わらず登場人物の心理が克明微細な筆致で描かれ、異常な迫力をもって呈示されるため、事件らしい事件も起こらず、プロットも極めてシンプルであるにもかかわらず、現代の読者の興味をも失わせない。傑作。
・「生きることの苦しみ」
新聞小説であった漱石の作品はいつもそうですが、後半に莫大な重みがある事に、毎度驚かされます。
兄さんは、「起きると、ただ起きていられないから歩く。歩くと、ただ歩いていられないから駆ける。駆けるとただ駆けてはいられない。刻一刻と速度を上げていかなければならない。その究極を想像すると怖ろしい。怖くて怖くてたまらない。」と言います。これは、兄さんの弁ですが、そのまま漱石の弁でもあったと思います。何もかもが転がる玉の如く加速度的に変化する世界で、どうしても一つ所に留まることを許されない、人間の苦悩がありのままに書きつづられたすごい作品だと思います。最後まで読みきったとき、タイトルの「行人」という言葉が胸にしみてくる、相当重みのある小説です。
・「漱石自身の苦悩へ」
後期三部作の第二作。例によって朝日新聞への連載小説。
前期三部作に描かれた近代知識人の苦悩(自然と倫理or情念と理知、実務家のプラクティカルな能力とインテリの無為、無能力etc.)に関する問題がさらに推し進められて、より漱石自身の苦悩(人(と人と)の心や関係の有り様、信、誠の存在可能性など、要するに人間存在というか、多分に(今の我々からすると)哲学的な問題)が直截的に投影されている。
胃潰瘍の再発による連載の長期に亘る中断をはさんだため、中断前と再開後の内容において、破綻とも言われかねない構成上の転換(語り手の変化)や、主人公(一郎)の心境の著しい変化などが見られるが、「彼岸過迄」を経た読者には、それほど気にはならない。表見的には、「こころ」よりわかりづらく、とっつきにくいが、「こころ」を理解するためには、読んでおかなければいけない作品。
文章技術的には、相変わらず暗喩、隠喩、直喩を駆使しつつの心理描写が異常な迫力をもって呈示され、事件らしい事件も起こらず、プロットも極めてシンプルであるにもかかわらず、現代の読者の興味をも失わせない。傑作。
・「一人行く人」
新聞小説であった漱石の作品はいつもそうですが、後半に莫大な重みがある事に、毎度驚かされます。
兄さんは、「起きると、ただ起きていられないから歩く。歩くと、ただ歩いていられないから駆ける。駆けるとただ駆けてはいられない。刻一刻と速度を上げていかなければならない。その究極を想像すると怖ろしい。怖くて怖くてたまらない。」と言います。これは、兄さんの弁ですが、そのまま漱石の弁でもあったと思います。何もかもが転がる玉の如く加速度的に変化する世界で、どうしても一つ所に留まることを許されない、人間の苦悩がありのままに書きつづられたすごい作品だと思います。最後まで読みきったとき、タイトルの「行人」という言葉が胸にしみてくる、相当重みのある小説です。
・「おこがましいんですが・・・」
専門家でも何でも無いんで、おこがましいんですが・・・「三四郎」「それから」「こころ」に較べれば、「行人」の知名度はいまいちかも知れません。それでも、僕にとって「行人」は、ほぼNo.1の印象を受けた小説です。本書の一郎の様な悩み、今の人にも通ずるんじゃないでしょうか?
・「何度読んでも飽きない」
~この作品は、小説と言うよりはむしろ、作者が「猫」の口を借りていいたいことを綴ったエッセイに近いものだと言うことができるでしょう。適当にぱっと開いて、でてきた所を読む、そういう読み方が楽しめるのもこの作品の魅力です。何度読んでも飽きません。登場人物たちの名前はだじゃれになっていて、作中いろんなギャグが飛び交います。「ずうずうしいぜ、~~おい」と言えば、「Do you see the boy」と返す酩酊ならぬ迷亭が、私のお気に入りです。~
・「笑いの中にある厭世観」
なにげない日常生活の会話や出来事の中から漱石らしい深い洞察と分析によって人間の利己や他愛のなさがくっきりと浮き彫りにされています。猫を主人公とした一人称の視点で書かれているのも面白い。人間の態度や発言に常にクールでシニカルな視点からその滑稽さをあばくさまは、さながら名探偵の謎解きのよう。必ずといってもいいほど笑いにつなげるその姿勢は一見気楽で楽観的なようにも見えるかもしれないが、その背後には絶望的な悲観と厭世観がのぞかれるような気がします。
・「大好き」
漱石のなかで最も好きなのが、「吾輩は猫である」。文体は落語調と言えば良いだろうか。洒落た表現も出来るし、微細に書ける文体でもある。
この文体があればこそ、使える単語も多く、ユーモアも皮肉も非常に気持ち良く繰り出されている。
どこから読んでも気持ちが良い。登場人物の会話も好きだが、地の文がやはり面白い。手元に一冊置いておけば、何気なく読み出せる。500ページ、600ページと言わず、5000ページあっても、親しめるに違いない素晴らしい本。
福田恒存氏が指摘している通り、漱石と鴎外は「近代」を真剣、深刻に考えていた。漱石は神経衰弱になっていくが、「猫」においては、深刻と洒落とユーモアが、渾然一体となっており、悲しいくらい美しい。
・「今でも笑えるユーモアのセンス」
「吾輩は猫である。名前はまだ無い」という有名な書き出しは、学生時代からずっと頭に残っているものの、実は最後まできちんと読んだことがありませんでした。登場人物の描写が決して大げさではなく、猫の視線から描かれたものでありながら、つい笑いを誘います。現代の笑いのセンスとは違ったテイストがありとても楽しめました。登場人物である「猫」の人間社会を冷めたかんじの語り方と「クシャミ先生」の偏屈ぶりは憎めないものがあり、文豪、夏目先生の世界にはまりました。
・「猫の視点から見た人間」
非常に有名な本だからこそ、逆に読んだことのない方も多いのではないでしょうか?猫の視点から人間界を風刺すると言う発想は夏目漱石だからこそだと思います。日露戦争後の先進諸国に追い着きつつある日本と日本人の様子が猫の目を通じて非常によく表現されています。読んだことの無い方、是非一読ください。
・「心理描写の奥行きの深さ」
つい半歳ほど前に結婚したばかりの津田。新妻お延とはどこかしっくり行っていない。京都の実家からは援助を打ち切られ、金策に奔走しつつ、痔の手術で入院する羽目にもなる。そんな津田にはお延の前に愛した女性がいた・・・。
その巧みな心理描写が素晴らしい漱石ですが、この「明暗」とそれまでの小説と決定的に違うのは、その心理描写が主人公だけでなく、脇を固めるキャラクターにも徹底されていることだと思います。妻お延、妹お秀、津田の世話を焼く吉川夫人、津田の友人小林など、さまざまな登場人物の心理が書きこまれ、人と人のあいだに生じる誤解、思惑の違い、駆け引き、そうしたものの存在と、それが人間関係に与える影響が、浮き彫りになっていきます。結果として、どちらかと言うと主人公自身の心理に焦点を当てた、漱石のそれまでの小説とは、まったく違った深みを持つ結果となっているように思います。人間は他人を、自分の行動パターンに照らして分析しがちだが、実は自分とはまったく違う利害関係でもって思考し行動している、そしてそのズレは埋めあわせがつかないくらい決定的だ、そんなことを考えてしまいました。この小説が未完で終わっているのは、何ともなんとも残念なことです。だからこそ想像力をかき立てられる部分もあるのでしょうが・・・。
・「未完、だが」
濃いです。文体が、描写が。漱石のそれまでのどれとも違う、コクのある内容、心理描写。それまでの総大成、と言う人がいるのも分かる。作者の死により未完に終わっている、ということで手を出しにくい人が多いかもしれないけれど、漱石が好きなら読むべきです。それだけの価値はある。
・「あの世で問い詰める」
未完を承知で手に取ったが、どーにも津田チャンの行く末が気になって仕方がありません。しかーしっ! たとえ不完全燃焼が予定調和だったとしても一読に値する傑作です。
日常的には他愛のない?(小説的にネ)物語なんだけど、何故こうも全編を通じて緊張感を孕んでいるのか。とにかく、「神かアンタは?」と、問い詰めたくなるほどの心理描写は、他の追随を許さない。是非とも、続きはあの世で拝聴させてもらいます。そして、対峙した漱石さんが口を開きかけた瞬間、ボクは・・・。-未完-
・「際立つ人間模様」
私の自覚する自分、そして他人の認識する自分、自分の実家での自分、連れ合いの実家での自分。幾通りもの人間関係の中で、人物が浮かび上がってくる。それは小さな世界の中でも見栄を張り、少しでも自分を大きく見せようと、少しでも上手く立ち回ろうとして駆け引きをする人間達。ときには自分では太刀打ちできない相手の力を感じて、仮面を剥がされるような気分を読者も一緒に味わう。漱石の手腕により、各登場人物のキャラクターが際立っている。ともすれば矮小な小賢しい印象を与えかねないが、そうはならないのが、我々の近くにいる等身大の人物が、彼らの論理なりに一生懸命に生きている様が描かれているからだろう。
これが新聞に連載されていたとは、当時の読者はさぞかし毎日が待ち遠しかったに違いない。また、文豪の死を悼むと同時に、この物語が突然、そして永遠に止まってしまったことを嘆き悲しんだに違いない。
・「最高の近代小説」
漱石未完の大作。約90年前に書かれた小説ですが、現代人が読んでももの凄くリアルに思えます。漱石の後期の他の作品との最大の相違点は、主人公の脇をかためる女性の心理が男性と同格に描写されているということです。主人公一人の視点ではなく、他の登場人物の視点も描かれています。また、所謂近代知識人は登場しません。こころや行人も傑作だと思いますがテーマが近代知識人の自我の苦悩というものなので、謎の部分もあります。(特に僕ら中学生や高校生には)それに対して明暗は描くのは市井の人間ですのでそういう意味では分かりやすいと言えます。(但し人間のエゴを描くのは共通しています。)全体としては異様なまでに緊迫した人間関係や心理の機微を巧みな文章で描写して、誰もが持つエゴを直視しています。漱石の小説は勿論、日本の近代小説の中でも最高傑作のひとつだと思います。
・「漱石先生の本に感想を述べるのも野暮ですが」
夢十夜を筆頭に、この新潮文庫版では読みごたえのある短編がギュッと詰まっていて、長年愛読している一冊です。高校生の宿題で読んで以来、何回も読み直しましたが、やっぱり漱石先生之短編では「夢十夜」が一番好きです。十夜の間に見た夢として語るオムニバスで、気分で読む順番を選べたり不思議な形式の短編だな、思っていましたが、いつ読んでも印象が新鮮なので飽きません。特に善いのは護国寺の運慶の話や、何夜も何か待っている男の話。そして「こんな夢を見た。」というフレーズ。黒沢明監督が触発されたのもうなずけます。この他には、モナリザのことを書いた話も、明治の人の目にはモナリザはこんな風に映ったのかな、と想像がふくらんできます。
・「たった数ページなのに」
私の一番好きな漱石の小品「文鳥」
「十月早稲田に移る 伽藍のような書斎にただ一人、片付けた顔を頬杖で支えていると・・・」から始まる、たった数ページの私=漱石と文鳥の世界。
まるで世界にこの鳥と私しか存在しえないような綿密な文鳥の描写。漱石は猫といい、犬といい、この文鳥といい、動物を本当に面白く「読ませるような」描写をします。
「昔美しい女を知っていた」と、文鳥を過去に「私」が好きだったらしい女に見立て、ただの動物の写生文に終わらせません。文鳥のしぐさを「菫ほど小さい人が、黄金の槌で瑪瑙の碁石でもつづけ様に敲いている」ようだなどと描く漱石の狂気のような綿密さ。
大変過小評価されている「文鳥」ですが、漱石の随筆、
小品がお好きな方は是非読んでみて欲しい掌編です。
・「ムンクの叫びに似て」
夏目漱石というと 長編小説が有名かもしれないが そんな漱石が短編を書くと こんな無気味な作品が出来るという好例。
内田百聞の「冥土」もそうだが この時代の短編集には 純粋に文学美を探究したような 奇妙な味わいの作品がある。漱石の「夢十夜」も そんな色彩に彩られている。 ここで漱石が語っている話は 彼自身の夢という形を借りた 当時の「時代の不安」なのかもしれない。例えばムンクの「叫び」に似ていなくもないと思ってしまう。漱石が気がつくと 気がつかざると。
漱石が作者であるということを超えて 傑作。美術館を巡っているような 読書体験。
・「漱石は「幽体離脱」を体験していた!」
あなたは超常現象を信じますか? 超常現象と言ってもいろいろありますが、「幽体離脱」はどうですか?
「思い出す事など」(本書所収)の中には、明らかに「幽体離脱」と思われる体験が記されています。こういう推薦の仕方は邪道かな、という気もしますが、漱石(と「幽体離脱」)に興味ある方は、こちらも手にとってみてはいかがでしょうか? 問題の記述は20章にあります。
「夢十夜」。ーーこれは文字通りの傑作。凄い。小品ですが、私は敢えて、漱石の<最高傑作>と呼びたい気がします。
・「染み込む感じの作品+エッセイ」
書かれていることは漱石の生きた当時の、何でもない日常ですが、夏目漱石本人の人柄や知識が覗える短篇集で、普段本をほとんど読まない自分ですがとても興味深く読めましたし、読み返したりもしています。
ひとつひとつのエピソードの短さも暇な時に気軽に読める良さであると思います。
何度でも読めて自分の知識も深めていける、得るものがあるという面白さを感じられます。
「文鳥」「夢十夜」「永日小品」「思い出す事など」「ケーベル先生」「手紙」「変な音」
以上7つとも、明治時代の末期、明治41年(1908)から44年(1912)頃の数年のあいだに書かれたものでありその多くが当時、漱石が在籍した、朝日新聞社の新聞紙面に寄稿したものです。
・「それからの代助と、それからの日本は・・・」
本書は「三四郎」に続く三部作の二作目。主人公、代助は親の勧める縁談話を勘当を覚悟で断り、友人の妻、三千代と一緒になろうとする。その結果、代助は親からの経済的援助を打ち切られ、生活力を持たない彼が途方に暮れてしまう所で小説は終わってしまう。代助は当時としてはかなり進んだ日本人で、洋書に親しみ近代的(西洋的)な思想を持って生きる「高等遊民」であるが、そんな彼が平岡と議論する場面で、日露戦争後の日本の姿を「むりにも一等国の仲間入りをしようとするが、日本ほど借金をこしらえて貧乏震いしている国はない」と批判している。しかしそれはまさに形ばかり西洋化しても殆んど生活力を持たない代助の姿そのものではないだろうか?それから代助と三千代はどうなったか?三作目の「門」へ続くが、登場人物は別の設定となっており、一読者として興味は尽きない。それから日本はどうなったか?その後の歴史を知っている我々としては色々と感慨深いものがある。
・「漱石は怖いです」
最近「それから」を読み返したのですが、子供の頃は暗いなあくらいにしか思えなかった小説が、今では「怖いことを書いているなあ」と思うようになりました。「三四郎」の頃からそうなのですが、漱石は作中の人物をこれ以上は後戻りをすることの出来ない所まで追いつめます。それは、もし私が同じ立場に立たされたならば震えてしまうほど後戻りの出来ない場所でもあります。この「それから」でも、代助が友人である平岡に妻である三千代を譲ってくれというぎりぎりの所まで追いやり、さらにはその事で代助が何もかも失ってしまう、という所で物語は終わります。美しい物語の影になって、それまでは気が付かなかったか見落としていた漱石の怖さというものを、今回読み直すことで実感できるようになりました。
・「「それから」は『それから』」
「それから」という題名を「三四郎」の後を意味する「それから」と捉えるのが、一般的な見解である。しかし、私は「それから」以降を『それから』と捉えます。 近代、資本主義の萌芽期の明治時代にて、前近代の所産を投資し、所謂富裕な市民階級が現れた。代助の生家もその類であった。甘えた彼は、現在のフリーター以下の遊び人。たまたま、親の脛を齧りつつ学問を修めていたが故、「高等遊民」と位置づけられた。 友達は社会に出て、それぞれに奔走。中でも、故郷の役所に勤めた友に本を贈る件は、親切とは言えども、身の程知らずとしか言い様がない。もちろん、平岡と美千代の仲介は、言葉もない。 しかし、であるからこそ「それから」の話が成り立つ。もちろん、代助は、善良な人間である。終盤、ついに親・家族・家をも裏切る裏切る行動に出た。所謂「高等遊民」たる代助の境遇は、浮世のメリーゴーランド状態となる。東奔西走先さえも見失う。題して『それから』と私は捉えます。【余談】草枕の那美さん、愚美人草の藤尾さん、ここでも美千代さんを美しく描いている。漱石って、美人を描かせたピカイチですね。
・「時を経てわかった小説」
大学に入りたての頃、映画化されて話題になったので読んだときは、正直ピンと来なかった。やはり漱石は「こころ」や「坊ちゃん」だなと思っていた。
しかし、それから10年ほど経って読んでみたら、心に響いた。何回も読み返した。人生経験をつまないと分からない小説ってあるもんだな、と思った。いまでも時どき読み返す。もちろん「こころ」や「坊ちゃん」も好きですが、私はこれがいちばん。
・「僕の存在には、あなたが必要だ。」
私にとって漱石のそれからは、日本文学史上最もロマンティックな作品です。代助は大学を卒業した後も、働こうとしない。それは彼が、怠け者であるからでも、世の中に出て行くのを恐れている(世の中の人間を見下している)からでもない。なぜ働かないのか、なぜ結婚しないのか、と他人に聞かれた時の彼の返事は本心ではない。(兄嫁だけがその事にうすうす気付いていたが。)本当の理由は、彼の心の中に大きな隙間があったからだ。それは美千代。彼は美千代との思い出の中に生きていたからだ。物語の終盤、代助が美千代の昔と同じ髪形を指摘し、「あら気がついて・・・」 というたった一言の中に三千代の悲しみ、恥じらい、喜び、ためらいといった想いが表され、美千代という女性、二人の関係を物語っている。彼らは同じ世界に生き、彼らの世界は、美千代が結婚した時点で止まってしまったのである。
そして今、時は再び動き始める。「それから」とはこの物語のあとの二人のそれからを指す。
・「絵画的小説」
三四郎は、東京の大学に入学し、律儀に講義を聞いていたが、どうも物足りない。そこへ、友人から、「下宿屋のまずい飯を一日に十返食ったから物足りるようになるか考えて見ろ」と、どやしつけられ、都内を散策してまわるようになる。そんなおりに出会ったのが、美禰子である。 二人が三四郎池で出会う場面、病院で再会する場面、知り合いの引越しを手伝って仲良くなる場面、団子坂の菊人形を見にいき、人ごみの中から逃げ出す場面、等、有名な美しい場面が多い。文章によって、絵画的世界を構築する漱石の文章力に触れるだけでも、読む価値がある。
・「2 stray sheep」
Japanese is difficult to understand. Different person has different understanding, particularly for stories. I recently changed my opinion about this book. (Particularly, about Mineko.) I came across the questions. “われは我がとがを知る。わが罪は常にわが前にあり” Did Mineko simply say this for sorry to Sanshiro? Who is stray sheep? Sanshiro? Or Mineko? Sheep is always single. If I think that Soseki used “sheep” on purpose to make it deeper, do I think too much?I know that “われは我が…” and "stray sheep" are from the Bible.
Mineko certainly hurt Sanshiro and felt sorry to him, but also she hurt herself.Stray sheep is both Sanshiro and Mineko. “とが” is both Sanshiro’s and Mineko’s. I thought that Mineko is proud and kind of bad woman, before.However, I changed my mind. Most people take Sanshiro’s side, but I would like to take Mineko’s side as well as Snashiro's.
・「青春の思い出」
「三四郎」は「こころ」と並ぶ漱石の代表作です。ぜひ、大学生、18歳前後の方に読んでいただきたいと思います。 私は18歳の時に読みました。淡く美しいラブストーリーがメーンですが、大学生・三四郎をめぐって、学問の楽しさが多くの挿話とともに語られていきます。 「吾輩は猫である」とは異なり、プロットは極めて軽妙、下町の情景描写もほとんどの地名が現存することもあり、一級品の史料です。 そして最後の一文は、繰り返し涙を流しました。 三四郎のように強く生きたいものです。
・「また「会いたくなる」小説」
漱石の書いた最後にして最高の「楽しい」小説。「こころ」や「明暗」では決して味わえない物語の楽しさが、なつかしい手紙を小箱に詰め込んだように充溢している。漱石自身、この作品が彼にとっての分岐点になることを予感していたに違いない。
この本を開くたびに、真夏のキャンパスに降り注ぐ太陽の匂いがする。家々を渡る初秋の風の色が見える。美しく聡明な女の、翳りのある横顔が映る。夢のようにいたずらにうち過ぎていく青春の一コマが蘇る。……本を閉じた後、きっと、もう一度三四郎たちに会いたくなる。
だから名作なんだろう。
・「普通の人々のリアリズム」
夏目漱石の初期三部作といわれる最初の作品、『三四郎』。 主人公、小川三四郎が一人の女性に淡い恋心を抱き、しかしそれは実らぬまま静かに終わる。 それまでの過程は、市井を生きる名もなき人々の様子や情景の淡々とした描写によって綴られる。 物語というより、情景のスクロールを眺めているかのような感覚で読むことが出来る。
日常的に社会は動き、人々の生活の営みがある。三四郎はそういう様子に触れ、特に奇抜な発想をするでもなく、かといって陰鬱さの中に身を拘泥させるわけでもない。淡々と日常の流れに身を任せている。 登場人物もみな取り立てた特徴のある人物ではない。見渡せばどこにでもいそうな人たち。 漱石の作中に登場する人物たちは名もなき市井の人々ばかり。 だからこそ読み手は人間を同じ目線で眺めることが出来る。 偉人や特殊な才能を持つ人々の物語ではないだけに、地味な印象を受けるが、しかしこの地味さこそが人間社会のリアリズムを実感させてくれている。
・「文学の香りと面白いストーリー」
夏目漱石の初期作品である「坊っちゃん」と「吾輩は猫である」は、その後の漱石の作品と比べると、かなり異質だ。ただ、どちらも非常に面白い。何度も読み返したという方は、少なくないと思う。私もその一人だ。明治39年作の「坊っちゃん」は、この時代の他の作品同様、現代の我々が読むと、細部は理解しにくい。その点は、多くの解説書が出版されており、流石に広く愛読されている事が分かる。
物語は四国松山方面の方言情緒が盛り込まれている。坊っちゃんの宿直の時に、布団の中に大量のバッタを入れられ、坊っちゃんが生徒を吊し上げる場面がある。この時の生徒の言葉「それはバッタやのうて、イナゴぞな、もし」と言うあたりは傑作だ。また、大食いの坊っちゃんは、天麩羅蕎麦を4人前もたいらげ、そんな事で職員会議でたしなめられたりする。当時の教師像の有り様が伺える。
面白い点は、推理的要素が少し含まれている点だ。赤シャツと野だは、当初からうさんくさい。山嵐は敵なのか味方なのか分からない。どうも、うさんくさい人間にはめられている感がある。そして、クライマックスのドタバタ的盛り上がりだ。
これらが文学の香り高く綴られる。坊っちゃんの清(きよ)への愛着もほほえましい。
本書は、この先何百年、何千年と読み継がれてゆくのだろう。
・「今こそ、坊っちゃんのような生き方を」
「KY」なんて言葉が頻繁に使われる現代。個性を犠牲し仲間に合わせることが多くなっているのではないでしょうか。そしてまた、現代は理性の時代でもあります。理性に埋もれてしまった自分の感性。そういったことが、生きづらい世の中を作り出しているような気がします。
坊っちゃんは、周りのことはおかまいなしで、自分の言いたいこと、やりたいことをズバズバ行っていきます。現代風に言えば、ただのKYじゃない。勇気と情のあるKY?なんです。
あれもダメ、これもダメ・・・「生」への制限が多くなった今、「坊っちゃん」のような味のある人間が極端に少なくなりました。
・「新解釈を踏まえて」
漫画「坊っちゃんの時代」を踏まえて読むとずっと痛快な小説だと思っていた坊っちゃんという作品が妙に切ない作品に思えてきます。清とマドンナは旧新時代を象徴する存在として、また赤シャツや野太鼓は時の権力者に、そして坊っちゃんは時代に敗れさる者として見ることができる。
・「清への思い」
この小説は松山に赴任した中学校教師の奮闘記…なんてものじゃない。そこだけ取ったらそんなに面白くないと思う。 キーになっているのは清への思い。坊ちゃんはいつでも清を支えにしている(そんなこと坊ちゃんは言いませんが)、清を自分の中心に置いていて、いつも気にかけていて…読者もそれを常に感じとる事が出来ていつも温かい気持ちになる。坊ちゃんも読者も常に心の中で清の存在をそばに感じるからメゲないし真っ直ぐ正直でいられる。親から愛情をあまり注がれず育った坊ちゃん(漱石も同様らしいですが)を、唯一温かく見守り支えてくれたのが清で、そんな坊ちゃんのパーソナリティーを見事に描いていると思う。 そして私は不覚にも毎回泣いてしまう。 こんなにサラリと書いているのに坊ちゃんと清の事で胸を一杯にさせてしまう漱石はやはり流石だと思う。
・「ちょっとそこの坊っちゃん!」
中学時代に読んだ本です。ほんとに久しぶりに手にとって見た。陳腐な評になるが、「名作は、色あせない。」。まさに本作は、誰もが認める名作。娯楽性だけでなく、日本人の性質もよく表していて、いつ読んでも楽しめる。今回は、そのことをさらに強く確認することができた。
・「思春期に」
高校の教科書に「こころ」の一部分が載っていて、全部読みたくなり読んだのが最初です。
授業で、「K」は何で「K」なのだろう?という話し合いをしました。答えは無い問題なのですが、こころの「K」だとか名前にしてしまうと誰と決まってしまうからアルファベットを使っているとか色々ありました。
その中で、先生の言っていた、
自殺に使った「knife」(ナイフ)の「K」何も言わずに去っていった「K」と、ナイフと言う時に発音されない「K」「K」は言葉に出来なかったもの。という意見。
こじつけっぽいけれど、たった一つの事でも掘り下げて想像することが出来るのかと衝撃を受けました。「こころ」というとその授業がすごく印象的です。
・「思うこと考えること」
この物語は「私」と「先生」というふたりの人物を主軸に三部構成でかかれた物語である。「先生」がある悲痛な過去を背負いながら生きていること、その「先生」の人間に関心を示した「私」。その過去に何があったのかということ、人間が生きてゆく上で葛藤せねばならない嫉妬や裏切り、欺き、信頼、我執という根源的な問題。そういうものが底流に流れつづける。
この作品はやはりすさまじい何かを問い掛けてくる。明治の文学作品でありながら今に読み継がれ、なお新鮮な何かを感じさせる。それは人間普遍の問題を取り扱っているからであろう。時代や風物、世相が変わろうとも、そこに生きる人間が抱く心象風景にはさほどの違いはないはずだ。だからこそこの作品を通して多くの人々が考えるきっかけを得ることができるのだと思う。
・「ひきこまれる!」
以前からもっていましたが、つい最近、高校でも勉強しました。
これを読むと、タイトルが「こころ」とついている理由。夏目漱石が伝えたかったもの。夏目漱石の座右の銘が「則天去私」である理由と意味。全部、ひしひしと伝わってきます。
物語が進むにつれて、どんどん自然とひきこまれていきます。登場人物の気持ちが、胸にダイレクトに響いて、とても考えさせられます。
決して押し付ける本ではありません。それなのに、考えさせられるというのがすごいです。
ぜひ、読んでみてください(*'∀')g
・「明治のこころ」
「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」の3部構成です。 高校生の頃現代国語の教科書でお馴染みの作品。当時教科書で取上げられていたのは「先生と遺書」の抜粋でした。 第3部が作品の中で一番ドラマチックな部分だからでしょう。ただ、登場人物"K"の自殺や襖に飛び散った血の跡、 下宿の"お嬢さん"を"K"を出し抜く形で妻にしたことで友人の自殺という結果をもたらしてしまったという思い込み を抱えたまま生きる屍となった"先生"・・これらは当時の私に「暗い作品」というイメージを与えました。 改めて「こころ」をきちんと読み直すことで作品に対して深い感銘を受けました。 作品の舞台も漱石の生きた時代も「明治」です。 作品の中では明治天皇が崩御し、殉死という形で乃木大将は人生に幕を降ろします。 "先生"もまた自身の命を賭して贖罪します。 そこには、明治という時代を作った人間の力とその時代に育まれた人間のこころを読み取ることができます。 登場人物は自分の信念・生き方に「真面目」であり、現代にはない力強さを持っていました。 暗いニュースが流れる昨今、私達も先人から学ぶべきことはたくさんあるようです。 人間の心は本当に弱く移ろいやすいものだと身につまされる思いがする一方、心が命ずるままに行動するのではなく 自分を律する強い心を育てなければと感じた作品でした。
・「生きている間に絶対一度は読んだほうがいい」
この作品は、上・中・下と三部に分かれています。”上 先生と私 ”では、主人公である「私」が、先生という一人の人物に出会います。
「私」と先生は交流を深めていきますが、「私」には先生の存在がどうしても遠く感じられます。
先生の奥さんが言うには、先生はある事件を境に性格が変わっていったのだといいます。先生は、時折その事件の伏線となるような言動をしますが、それを「私」には教えようとしません。
そして”中 両親と私”を経て、”下 先生と遺書”で、現在の先生という存在を形作る出来事が、先生を主体としてことごとく明らかになっていきます。
色々な言動や、光の加減が何かを暗示していたり、描写などがとても卓越してます。思っていても言葉で表現出来ないことが、綺麗な文章でうまい具合に表されているのです。
明治時代に書かれた本なのに、こんなにも古臭くなく、現代人に愛され続ける作品を書くことができる彼は本当に素晴らしい。
絶対に読んだほうがいいです。
・「十字架を背負った一生」
『三四郎』『それから』に続く初期三部作の完結編。
人の妻を奪い、その結果いっしょになった一対の夫婦、宗助と御米。それがゆえに世間から白眼視されることになったこの夫婦の苦悩の日々を描く。 もちろんこれを現代的感覚で読むことはできない。時代背景は封建的空気が未だ色濃く漂う明治である。姦通罪という不義を罰する法律があった時代であり、現代における“不倫の恋”などと同一視して軽い気分で読んだのでは主題の重さを感じることはできないかもしれない。
前作の『それから』では、主人公が友人の妻に恋心を告げ、それを友人本人にも打ち明け、結果それまでの生活をすべて破綻させたところで狂気を漂わせながら終わっている。 『門』ではそれを受けて、その後のひとまずの静寂を手にした夫婦の形に焦点を当てている。もちろん主人公も舞台設定も異なっていることは衆知のとおりである。 主人公宗助の苦悩を中心に描かれており、苦悩と向き合いつつも結局は答えや救いなどがない人生もあるということを示唆しながら終わる。 人の業深さを思わずにはいられない。 禅の門をくぐり、そこでわずかばかり滞留して再び門をくぐって帰ってきても、ついに自らの苦悩を解決できないまま、また再び静寂の生活に身を沈ませる。この様は身の始末をどうとも潔く処断できない人の弱さを十分に感じさせ、ある種の豪胆さを持った人は別として、いわゆる「その他大勢」の人々誰もが抱く心の脆さがどういうものかを考えさせる。
答えがない。 ない、ということにこの物語の本質がある。
・「細やかな心情の描写が秀逸」
三四郎、それからに続く三部作で、この3つの中では最も地味な印象です。「それから」のそれからを描いた作品で、「それから」の代助と三千代は、「門」では、宗助と御米の夫婦になって描かれます。
「それから」は夏の小説でしたが、「門」は冬の小説です。秋から冬にかけての季節感と世間に埋没するようにひっそりとしかしお互いを支えあって生きていく夫婦の心情が、漱石独特の文章で細やかに描かれます。前半部分の伏線が後半に来て宗助の心に動揺を与えていくあたりの描き方や御米に対する心遣いが美しい文章で語られます。
新しい岩波文庫版では、字体や仮名が一部改められています。しかし、漱石の文章はやはりオリジナルの旧字・旧仮名の文章でこそ味がでるものと思います。
・「暗い、果てしなく暗い」
この全編を覆う雨雲のような雰囲気はなんなんだ、と前半部分は感じた。だんだんこの夫婦の過去が明かされていき、この暗さの意味を我々は知ることができる。過去にがんじがらめにされて隠遁生活を送る夫婦の物語。でもこれも「あり」だなと思った。二人の生活。お金はないけど、静かなときが過ぎていく。旦那は現実から逃げたりするけど。しかしながら文章の表現力がすごい。あっと驚くような文章が惜しげもなくちりばめられている。なんというか、「黒の美しさ」というか、漱石のダークサイド、月の裏側のような作品。
・「明治の東京の夜の静けさの中で」
明治の東京の夜は、いかに暗く、静かであった事だろうか?この小説を読むと、私は、風の音以外何も聞こえない、明治の東京の夜の静けさを想像せずには居られない。耳を澄ませても、風の音以外、何も聞こえない、明治の東京の夜の静けさが、まるで自分の記憶の一部の様に、私の心を満たすのである。--暗い作品である。漱石の文学の主題の一つは、人間のエゴであるが、この小説(「門」)は、そのエゴの追求の先に在る、人間の孤独を描いて居る。それも、尋常の孤独ではない。明治の東京の夜の様な、深い闇の様な孤独である。この小説の主人公は、友人を裏切って得た恋の末、妻と、明治の東京に生きてゐる。二人は、深い愛情で結ばれてゐる。しかし、流産と死産の結果、二人は、三度、生まれて来る子供を失なふと言ふ悲劇を共有してゐる。その悲劇は、もろろん、主人公とその妻の過去とは、何の関係も無い。しかし、その悲劇が、主人公とその妻には、自分たちの過去の帰結であるかの様に感じられ、二人が、その感情から逃れられない事が、この小説の基本的なモチーフに成ってゐる。それは、もちろん、幻想である。しかし、その幻想が、幽霊の様に、否定しても否定し切れない処に、エゴを追及しながら、そのエゴに徹する事が出来無い人間の姿が在ると言へるだろう。平成の喧騒の中に生きる私には、主人公が感じるその感情が、明治の東京の夜の闇の様に、深く、恐ろしい物に感じられる。この小説(「門」)の出口は、何処に在るのだろうか?新潮文庫のこの本の末尾には、柄谷行人氏の興味有る解説も有る。本編と併せて、これも読まれる事をお勧めする。
・「美学者漱石の門。」
「門」というとまるで漱石が思想的にコンヴァートしたような側面が強調されるフシがあります。この青春三部作を後に、漱石は所謂「真面目がウリの漱石」となって完成へと向かった。果たして本当にそうでしょうか?漱石は単に真面目なだけではない。非常に一般に対して真摯なエンタテイメントな名作家だった。「猫」然り「坊ちゃん」然り。この三部作もまた、読者にいかに読ませるかに心を砕いた非常に丁寧で心のこもった親切な作品です。
こういうわかりやすくて教養に満ちた小説が少なくなりました。というより、漱石以後、皆無といってもいいと思います。面白くてタメになる小説を書いてくれる人がいなくなった。何だか真面目に自分の事ばっかり考える小説ばかりになってしまった。自分が何かなんて、フツウ他人はどうだっていいんです。そんなもん活字にしてどうするんだ。寝言じゃないか?最近の日本人の日本語でいう「自分語り」もいい加減にして欲しい。そういう小説が日本の近代文学をつまらない文学にしてしまった。
「門」はこうした漱石のエンタテイメントの最後の小説です。そして、いろいろな意味で美しく透明な描写と、漱石の美学的な教養に触れる素晴らしい作品になっています。奥さんと平凡でサビシイ生活をしているサラリーマンの話ととるのは結構。しかし、漱石のキャンバスにはもっと鮮やかな色彩と構図が盛り込まれています。
・「心は三世にわたって不可得なり(江戸っ子夏目金之助)」
べらぼうにおもしろい。理屈はさておき、とにかく自由である。「近代的自我? 知るか、んなもの、こっちとらぁ江戸っ子でぃ」と言わんばかりの、まさに宵越しの金は持ちそうにない語り口が、最初から最後までつづいていく。それがなんとも心地よい。個人的な話だけど、実は漱石を「努力せずに」読み通せたのはこれが初めてである。まったく見方が変わってしまったといってもいい。こんなのばかり書いていたら漱石さんも神経症やら胃潰瘍やらにならずにすんだのに・・・とさえ思える。(こんなのばかり書いているわけにはいかなかったのだろうけど)
いわゆる「推薦図書!!」になるような漱石の作品がどうしても苦手、という人にはぜひ一読を。
・「現実を知るきっかけに」
10年以上前の話になりますが、社員同士の打ち上げの席だったように記憶しています。
かつて炭鉱で働いておられた高齢者から、座敷の隅にへばりついていた処を呼ばれて、返杯をすませたおりに、仕事や趣味のお話を伺ううちに炭鉱の話を伺いました。
坑内での重労働の後は、飯は食い放題、異性と遊び放題という珍味酒肴の席に興を添える話であったと思います。
その後、上野英信や森崎和江などの著作を読むうちに辿り着きました。
若い頃、どうしても或る場所に行くのが嫌で、がむしゃらに他所へ出かけていましたが、 逃げてもいずれは現実を知らなければならなくなる。ということを考えさせてくれた一冊です。
3年前に会社をかわってから、その高齢者ともおつきあいがなくなり、お話しを伺うことはできなくなってしまいましたが、今も『坑夫』は愛読書の一冊になっており、再読のたびに高齢者に伺った話と辛かった当時のことを思い出します。
・「漱石作品で最もおもしろい」
2人の少女がきっかけで家出を決意する青年の、暗く堕落した坑夫に成り下がっていく様を描いた作品…と書けばそれまでだけれども、この青年の、現実問題に悩んで葛藤したり、気持ちが右へ左へと定まらなかったり、堕落していく自分の姿に嫌気がさしたり、下劣で品のない人間にむかついたり…といったような主人公の境遇は、同じような経験のある(たとえ家出経験はなくとも)同年代の少年少女なら些細な心理描写も深く通じるものがあるとおもう。(特に安さんとの出会いの場面は最高!!)夏目漱石にしてはめずらしく小説の構成を排除したルポタージュ的作品で、漱石作品の中ではかなり評価の低い作品ではある。けれども、主人公と同じ頃の齢の(十代二十代ぐらいの)少年少女には是非薦めたい作品であり、この作品『坑夫』で漱石に対する価値観が一遍に変わってしまうはずでしょう!
・「意識の流れを追ったドキュメンタリー風の作品」
作家としての漱石の、『虞美人草』に続く新聞連載第二作目。漱石に自分の体験を小説にしてほしい、と申し入れてきた青年荒井某の話を元にしている。
訳あって家を飛び出した19歳の主人公は、ポン引きの長蔵に坑夫にならないかと声を掛けられ、二つ返事で承諾してしまう。途中で赤毛布、小僧もメンバーに加わり、銅山まで旅する。辿り着いた先の飯場で坑夫たちに嘲弄されながらも、翌日主人公は炭坑の奥深くへと降りていく……。
主人公の意識の流れがさまざまな要因によって、右へ左へと180度変わってしまう様子を、物語の当時から時間も経って成長した主人公の視点から分析していきます。極限状況の下で、いかに深層心理が浮かび上がってくるかを省察した好著です。
・「三部作のプロローグ」
漱石の作品中、もっとも地味な作品である。
気弱で優柔不断な主人公が、逃避行する中、周旋屋に出会うことから話が始まる。都会に出てきた三四郎がカルチャーショックを受けるがごとく、鉱山社会に右往左往する。
結末、虚弱とキャリアが幸いし、自らの新しい活路が開けた。さらに、鉱山社会おけるすべてを清算して、娑婆に帰れることになった。芸が身を助けたのである。
「坑夫」、漱石は脆弱な高等遊民を戒める三部作の準備として記したのでしょう。
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