春琴抄 (新潮文庫) (詳細)
谷崎 潤一郎(著)
「非児童推奨作品」「むしろ☆6つ」「春琴抄」「妙なる美」「「特殊人」二人による「普遍的恋愛」」
歌行燈・高野聖 (新潮文庫) (詳細)
泉 鏡花(著)
「ハイ・ファイドリティ」「無題」「『高野聖』の人気の秘密」「聖性と恐怖とエロス、そしてイニシエーション。」「売色鴨南蛮」
神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫) (詳細)
大西 巨人(著)
「ニヒリズムでは生きられないごたぁる」「書いてみたかったので書いてみました。」「ハードボイルド戦争文学」
それから (岩波文庫) (詳細)
夏目 漱石(著)
「それからの代助と、それからの日本は・・・」「漱石は怖いです」「「それから」は『それから』」「時を経てわかった小説」「僕の存在には、あなたが必要だ。」
「物怖じせずに読んで欲しい」「豊穣な世界」「正常と異常の錯綜」「一気に読んでしまう長編小説」「日本精神分析」
鳩どもの家 (1980年) (集英社文庫) (詳細)
中上 健次(著)
桜の森の満開の下・白痴 他十二篇 (岩波文庫) (詳細)
坂口 安吾(著)
「坂口安吾選集の決定版登場」「観念的な恋愛が好きな人にオススメです。」「人間の魂を見詰める視線の遍歴」
円陣を組む女たち (中公文庫 A 25) (詳細)
古井 由吉(著)
田紳有楽;空気頭 (講談社文芸文庫) (詳細)
藤枝 静男(著)
「突き抜けた小説」「小川芋銭に通じる「田紳有楽」」「ぶっ飛びました」「なんとなくSF、の超私小説」「極私小説」
死の棘 (新潮文庫) (詳細)
島尾 敏雄(著)
「「時には傷つけあっても あなたを感じていたい」」「鬼気迫る小説」「20世紀最高の作品のひとつ」「夫婦愛を追究した名作」「無意識下への良薬」
死者の書・身毒丸 (中公文庫) (詳細)
折口 信夫(著)
「あまりにも怖くて、そして切なく美しい」「いやはやすごい!」「読みづらいと思われた方へ」「メディア」「旧仮名遣いです。。。」
秋立つまで 他3篇 (岩波文庫 緑 74-1) (詳細)
嘉村 礒多(著)
「嘉村を旧かなで読むならこれ」「嘉村礒多の主要作品選」
ドグラ・マグラ (上) (角川文庫) (詳細)
夢野 久作(著)
「いやー」「ただ圧倒。」「良い感じに気持ちがわるい(笑)」「傑作です。」「10年ぶりに再読しましたが,やっぱりすごい作品です.」
死霊〈1〉 (講談社文芸文庫) (詳細)
埴谷 雄高(著)
「『死霊』に対してかまえすぎてはいけない」「宇宙観」「最高傑作」「文学の宇宙、人間と宇宙の小説」「「死霊達の舞台」といった感じです」
挟み撃ち (講談社文芸文庫) (詳細)
後藤 明生(著)
「不思議な魅力のある作品」「反ナルシズムの散文性」
一個・秋その他 (講談社文芸文庫) (詳細)
永井 龍男(著)
「最後の鎌倉文士」「「地元」の純文学」
エロ事師たち (新潮文庫) (詳細)
野坂 昭如(著)
「実は文体の実験作」「確かに面白すぎる」「戦後文学史に屹立する欠落」「性と死を見つめて」
われらの時代 (新潮文庫) (詳細)
大江 健三郎(著)
「枕元において寝ています」「あらゆる時代のコモン・センス」「試される」「もう一度読み返してみようかな~。」「閉塞生活の夢想」
檸檬 (集英社文庫) (詳細)
梶井 基次郎(著)
「詩情あふれる作品集」「梶井基次郎がみつけたかったもの」「果てしなき日々」「幻想的な作品集」「檸檬 レモン れもん」
食卓のない家 (新潮文庫) (詳細)
円地 文子(著)
「全親必読!親子関係を見つめ直す事を迫る作品。」
陥没地帯 (河出文庫―文芸コレクション) (詳細)
蓮實 重彦(著)
「小説」
プレオー8(ユイット)の夜明け―古山高麗雄作品選 (講談社文芸文庫) (詳細)
古山 高麗雄(著)
「佳作」
海の向こうで戦争が始まる (詳細)
村上 龍(著)
「海の向こうでいつも始まりつづけているビシシチュード」「水墨画と詩人」「神経にピリピリくる描写にしびれる」「全てが淡々と並列」「一番すき!!」
猫町 他十七篇 (岩波文庫) (詳細)
萩原 朔太郎(著), 清岡 卓行(編集)
「「鉄筋コンクリート」を「虫だ!」と思う感性のすごさ。」「空前絶後」「ひとがひとにみえない」「密度が濃い」「猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫。どこを見ても猫ばかりだ」
意味の変容 (ちくま文庫) (詳細)
森 敦(著)
「私小説の到達点」「「意味の変容」を読む「私」」
・「非児童推奨作品」
あぁぁ「大谷崎」しかるべき。でもオトナになってからで良かった、子供の内に読んでたら悪影響(笑)受けてたと思う。クライマックス前のシーンはまともに文章読めませんでしたぁぁ。こんな所で細かい描写すんなぁぁぁ。
解説より。この作品に対して「人物が描けていない」だの「生への問いかけがない」だのという批評がなされたって、現代の作品ではほとんどが「できてない」って事になっちゃうんじゃないすか? つか、第四者というか完全なる他人の視点で物語を描いている作品に対して「人物が描けてない」つーのも的はずれな批評に感じる。「鵙屋春琴伝」という(架空の)冊子を元にした調査報告を加えた作者のレポート(抄)という形になっている事で感情が抑えられている分、クライマックスまでの流れがより以上に感情に訴えているように感じる。いや、全体的に淡々と「書かれて」いるので、数少ない主役二人の会話が際だって瑞々しく感じられるので、その会話という窓を通じて覗く事ができる二人の人間性を見れば「人間が描かれてない」という批評はちょと違うんじゃないかなぁと思う訳で。
「文庫背表紙にあらすじが全部書いてある」系だけど、中味を読む前と読んだ後では感想が違うよなぁ。文学作品の醍醐味は最近流行の「あらすじ抜粋本」ではゼッタイ味わえない、断言できる。
・「むしろ☆6つ」
盲目の美女・春琴に仕える佐助は春琴の美貌が熱湯により傷つけられるやいなや、その美を永遠に心に留めたいがために自らの眼を針で貫く。「白眼のところはかたくて針が入らない」「黒眼は柔らかい二度三度突くと巧い具合にずぶと二分ほど這入った・・・」この部分の描写の驚くほどのリアリティと美しさは筆舌に尽くしがたい。おそらく世界に恥じない日本文学の代表的なもの。またこの作品には読点が全くないが、読みにくいことはなく、むしろ小説全体を通しての際だった美しさを引き立てている。日本語の可能性を大きく広げる(再認識させる)などあらゆる意味でこの小説はまさに奇跡的とも言える。
・「春琴抄」
盲目の美女・春琴に仕える佐助は春琴の美貌が熱湯により傷つけられるやいなや、その美を永遠に心に留めたいがために自らの眼を針で貫く。「白眼のところはかたくて針が入らない」「黒眼は柔らかい二度三度突くと巧い具合にずぶと二分ほど這入った・・・」この部分の描写の驚くほどのリアリティと美しさは筆舌に尽くしがたい。おそらく世界に恥じない日本文学の代表的なもの。またこの作品には読点が全くないが、読みにくいことはなく、むしろ小説全体を通しての際だった美しさを引き立てている。日本語の可能性を大きく広げる(再認識させる)などあらゆる意味でこの小説はまさに奇跡的とも言える。なお本作と三島の「憂国」中上の「重力の都」は個人的に日本文学史の中で際だって輝く短編ベスト3。
・「妙なる美」
初めて読んだ谷崎潤一郎の小説です。美しい言葉遣いにうっとりしながら読みました。息つく暇もないほどひたすらに語るような文体に(解説では饒舌体というそうですが)、そこここにある大阪弁があわさってなんとも言えない艶かしさを醸し出しています。 そして春琴と佐助の愛のあり方、他者を全く介さない二人だけの世界がくりひろげられています。春琴の佐助への執着や佐助の春琴への献身もあげられますが、やはり佐助が自ら目を潰した後の話がその最たるものと思います。光を絶つことでさらなる思考の恍惚を得て、触覚や聴覚でも春琴を感じ、生涯をささげつくす佐助は私の理解を超えていながらも、どこか憧れのようなものを感じます。
・「「特殊人」二人による「普遍的恋愛」」
谷崎文学の精髄は、「どこにもない世界」を「どこかにある世界」と読者に感じさせるところにあるだろう。どれほど異常な人物を描写しても、時代背景や細部の描写などが完璧なので現実感をもたせることができるのである(その意味で、三島由紀夫とは対照的である)。本書は、今までにない擬古的文体(多分谷崎流ではあるが)を用いて江戸後期の大阪の町人文化のなかで繰り広げられるドラマが描写されている。独立した「女性芸術家」である春琴と商家の奉公人から「検校」にまで出世する佐助は男尊女卑の身分社会である当時からすれば特殊人であるとさえいえるだろうが、谷崎の独自の文体によってタイムワープ(こういう俗な語は使いたくないが)させられた我々読者はそういう「特殊人による特殊な恋愛」も「リアリズム」として受け止めることができるだろう。文学作品における「文体」の重要さを実感させてくれる作品であり、後年の「源氏物語的文体」を用いた「細雪」にもつながるものである。
・「ハイ・ファイドリティ」
作り手の情念やイメージを受け手の心に再現させるのがアートだ。媒体、ジャンルが違っても、この原則はかわらない。多少のずれも味のうちだが、どこまで忠実に伝えるかが基本。このファイドリティの追求が芸であり、到達点が高ければ、よい芸だといってよい。
桑名を舞台に能役者の伯父、甥の運命的再会を描いた「歌行燈」は、そのお手本だ。中短編にもかかわらず物語を交錯させる手法は、ほどよく複雑。そのなかで、心理のあやはもちろん、絵と音までもが精巧によみがえる。繊細な描写による構成の妙。驚くほどの再現性だ。映像的な文学は数多いが、これはそれらをはるかにしのぐ。本家の映画といえども、字幕か何かで心理描写をおぎなわない限り、この濃密さをこえるのは難しいだろう。
個々のパーツを設計図通りに組みたてれば、これほどの再現性が得られるのだ。その見本がここにある。アートとは科学であり、著者はそれを熟知していたようだ。天才とは畢竟それをいうのだろう。「歌行燈」は文学としてだけでなく、芸事の教科書としても一級品。主人公自体、芸の神髄にふれた人というのも心憎い。読みとくたび得るものがあるこの小説は、芸の術をきわめたいアーチスト、クリエーターには必修だ。
一般に泉鏡花は耽美的な幻想文学の旗手として知られている。そういうことには詳しくないので、以上、独自の考えを述べたが、専門の研究者やファンの不興を買うかも知れない。現に以前、鏡花研究セミナーで同様の発言をしたら、まわりから白い目で見られた。見当違いの門外漢が何をいうか、との雰囲気になり、いたたまれなかった。的はずれなことをいっているつもりはないのだが、一体どうなのだろう。
今回は代表作「歌行燈」について特記したが、この本には「歌行燈」「高野聖」の表題作ほか、「女客」「国貞えがく」「売色鴨南蛮」の短編も収録されている。
・「無題」
旅の男が深い山奥で一人の美女と出会う。あまりにも妖艶なその女は幾多の男達を誘い獣に変えてしまう妖女なのであった。舞台の幻想性もさることながら、泉鏡花の書く文章そのものから漂ってくる美的な幻想性こそこの作品の特筆すべき点であり、また多くの読者に一目置かれている所以であろう。
蛇足だが、多分に男尊女卑的な思考の持ち主であったフロイトであるが、実際には男とは滑稽な下等動物であるともいえるのではないだろうか。事実フロイトはこう述べている「完全な性的な満足の後の状態は死と似ているのであり、下等動物にとって生殖行為は死を意味する」
・「『高野聖』の人気の秘密」
名作と評される『高野聖』の広範な人気の秘密は、どこにあるのでしょうか?題名は、高野山で修業した聖(ひじり)。浄土宗の修験僧。諸国を遍歴し法話を語ることで、布教をするのが役目。その人が雪の宿で夜半に、若者に語る「山の高さも谷の深さも底の知れない一軒家の婦人(おんな)」の物語。水量の豊富な谷間での、ともに裸体での沐浴。暑い夏の日の涼しさ。背中に女の吐息のぬくもり。花のような汗の香。皮膚感覚の描写の鮮烈。当今の露骨なポルノ小説の達しえぬ、若さの懊悩と歓喜の対照。その妙にあるのでは?
・「聖性と恐怖とエロス、そしてイニシエーション。」
聖性と恐怖とエロス、そしてイニシエーション。これらはホラー小説に欠かせない要素であるが、「高野聖」にはそれらが見事に揃っている。 深山の奥に住む謎の美女と若い僧のストーリーは、その設定の見事さにより、読者の好奇心を刺激する。怖いものみたさを喚起する。 いかにも怪しいシチュエーションは、「これは事件が起こる」と予感させるし、それは性的な誘惑を伴うはずであると確信しながら、ページをめくる。 泉鏡花はすごいストーリーテラーである。 読者はこの女は怪しいと感じながら、一方で惹かれていくのである。(読者は動物に変えられる男たちと一緒だ。) クライマックスは谷底での女の誘惑であるが、そこでは恐怖とエロスが渾然一体になり、最後に聖性(信仰)が勝利する。 エンターテイメントとしての完成度は相当なものだと思う。日本文学最高の幻想小説だ。
・「売色鴨南蛮」
『歌行燈』と『高野聖』の二枚看板については、他の方のレヴューをどうぞ。上記2作品の魅力と魔力については、ボクとて疑うところ些かもない。だが、本書収録作品から一作となれば、ボクは『売色鴨南蛮』を選ぶ。
短い作品だが、収録作中もっとも後年に書かれただけあって、文章の冴えは断トツである。ほんの出来心を思い詰める少年のウブさ、たかが眉形に涙する女の心理、ともに純情極まるものがある。もっとも、これは作品を肯定的に解釈した場合であり、読みようによっては、筋運びの強引さとも映ろうか。鏡花作品の一抹の弱さは、感情展開の恣意性の露骨さにあると思うが、知った上で、ボクはなお本作を贔屓する。そうさせるのは、まぎれもなく、本作の銀線細工のごとき美しさである。
疑いようもなく、本作の極点は、宗吉とお千の別れのシーンだ。状況を正確に飲み込めないながらも、事態の質については漠然と理解し、だがどうしようもできない己が無力さに、ぐずりながら、ただその後を追う宗吉。物語の流れはここにおいて悲劇の極みに至るが、それに続くは、一片のファンタジー、この期に及んで、美しく優しい、花びらの舞う、おとぎ話のような可憐なファンタジーなのである。
そこにご都合主義を見出すことは可能であろう。だが、そのいかにもあざといような筋書きが、ああ、見事なまでに美しいのだ。耽美、その美しさのためならば、歪とわかった上で贔屓もしよう、望んで溺れもしよう。そう思わせる魔力、ボクが鏡花を慕い、憧れ、陶酔するのは、まさにこの魔性がゆえにである。
『歌行燈』の美しさはもはやツァーリ・ボンバ級と言ってしまいたいほどだが、『売色鴨南蛮』だって、破壊力では少しも負けてはいないのだ。
さて、最後に題名について。タイトルからは内容を連想しがたいのみならず、当の鴨南蛮は作中に登場すらしない。鴨南蛮と言えばおそらくは蕎麦だろうが、その蕎麦すら、たったの一度しか出てこない。さらには「売色」ときた。理解に苦しむところである。
私見だが、これはいわゆる「夜鷹」の婉曲ではなかろうか。それを匂わせる間接的な描写こそあれど、鏡花は決定的な場面を書いていない。その狙いはようするに、宗吉のあいまいな状況理解を含ませ示しているのではないか。
・「ニヒリズムでは生きられないごたぁる」
読もう読もうと思いつつそのボリュームなど様々な理由で躊躇している方。迷っている場合ではありません。傑作ですから今すぐ手に取ってください。驚くべき記憶力をもつ主人公が、軍隊内の不条理に合法的に、軍規を盾にとって闘争する3ヶ月。あっちこっちに飛んでいく記憶のままに、東西の古典文学から豊饒に引用し、重苦しくもあり、おかしくもある「ザ・小説」。召集以前の生活、特に恋愛関係も珠玉の出来栄えです。
こんな世界は生きるに値しないと思っているニヒリストの主人公が、そのつもりもなかったのに、不条理な支配関係や差別問題に抵抗していくなか、周囲の一般兵たちと奇妙な連帯意識が芽生え、生きる希望を見出していく、という中心的なストーリーだけでも気持ちいい。軍隊でこそ見出す逆説的な希望。
もちろん、作品舞台が対米開戦直後の1942年1月から4月であり、敗戦濃厚になって兵隊たち自身が威圧的で堅苦しい雰囲気を内面化する前だからこそ、軍隊内にまだわずかに民主的法律的な空気が残っていることになっています。主人公の合法的な訴えを聞き入れて戸惑う上官たちは、決して問答無用の鉄拳制裁をしない。
ト書き風、一人語り風、三人称、引用のみ、など節ごとに文体を自在に変化させているのもおもしろい。九州方言の語尾「ごたぁる」の心地よいリズムが耳を離れません。至福の読書体験をぜひ!
・「書いてみたかったので書いてみました。」
他の人たちのレビューによって、おおよその概要はわかると思います。そのため、私は『神聖喜劇』を読み終えて考えた内容を少し書いてみることにします。主人公東堂は自ら対馬連隊へと加わり、戦地において「死ぬこと」が彼の望みだったのです。しかし、連隊での経験や過去の記憶がその気持ちを揺るがしていきます。どんな社会でもよくあることですが、連隊の中でも上下関係が存在し、その中では制度や法をも無視し、権力をもっている人間こそが法なのである、といった形です。東堂はこの矛盾と戦っていき、やがて彼の心に変化をあたえるのです。『神聖喜劇』は東堂の物語であり、私たちの物語ではありません。しかし、私たちが社会の矛盾に出会ったとき、どのような姿勢でそれにぶつかっていくかを考えさせられる一冊であったと思います。
・「ハードボイルド戦争文学」
軍隊の話ということで少し気が重かったんだけど、表紙がきれいなのと字が大きいことに惹かれて読んでみました。
出だしの文章が硬くって取っ付きにくい印象を受けるかもしれませんが、読んでいくとわくわくして続きを読まずにいられなくさせる小説です。主人公がピンチに陥っては切り抜けたり推理小説っぽいところがあったりして、軍隊の話というよりはエンターテイメントとして肩の力を抜いて楽しめます。
この小説の雰囲気をわかりやすく言うと、原尞のハードボイルドな探偵や村上春樹の小説の主人公を徴兵して軍隊に入れたらこんな感じになりそうです。主人公の格好よさもこの小説の魅力でしょう。全5冊でまだ4冊あって毎月発売が楽しみです。
・「それからの代助と、それからの日本は・・・」
本書は「三四郎」に続く三部作の二作目。主人公、代助は親の勧める縁談話を勘当を覚悟で断り、友人の妻、三千代と一緒になろうとする。その結果、代助は親からの経済的援助を打ち切られ、生活力を持たない彼が途方に暮れてしまう所で小説は終わってしまう。代助は当時としてはかなり進んだ日本人で、洋書に親しみ近代的(西洋的)な思想を持って生きる「高等遊民」であるが、そんな彼が平岡と議論する場面で、日露戦争後の日本の姿を「むりにも一等国の仲間入りをしようとするが、日本ほど借金をこしらえて貧乏震いしている国はない」と批判している。しかしそれはまさに形ばかり西洋化しても殆んど生活力を持たない代助の姿そのものではないだろうか?それから代助と三千代はどうなったか?三作目の「門」へ続くが、登場人物は別の設定となっており、一読者として興味は尽きない。それから日本はどうなったか?その後の歴史を知っている我々としては色々と感慨深いものがある。
・「漱石は怖いです」
最近「それから」を読み返したのですが、子供の頃は暗いなあくらいにしか思えなかった小説が、今では「怖いことを書いているなあ」と思うようになりました。「三四郎」の頃からそうなのですが、漱石は作中の人物をこれ以上は後戻りをすることの出来ない所まで追いつめます。それは、もし私が同じ立場に立たされたならば震えてしまうほど後戻りの出来ない場所でもあります。この「それから」でも、代助が友人である平岡に妻である三千代を譲ってくれというぎりぎりの所まで追いやり、さらにはその事で代助が何もかも失ってしまう、という所で物語は終わります。美しい物語の影になって、それまでは気が付かなかったか見落としていた漱石の怖さというものを、今回読み直すことで実感できるようになりました。
・「「それから」は『それから』」
「それから」という題名を「三四郎」の後を意味する「それから」と捉えるのが、一般的な見解である。しかし、私は「それから」以降を『それから』と捉えます。 近代、資本主義の萌芽期の明治時代にて、前近代の所産を投資し、所謂富裕な市民階級が現れた。代助の生家もその類であった。甘えた彼は、現在のフリーター以下の遊び人。たまたま、親の脛を齧りつつ学問を修めていたが故、「高等遊民」と位置づけられた。 友達は社会に出て、それぞれに奔走。中でも、故郷の役所に勤めた友に本を贈る件は、親切とは言えども、身の程知らずとしか言い様がない。もちろん、平岡と美千代の仲介は、言葉もない。 しかし、であるからこそ「それから」の話が成り立つ。もちろん、代助は、善良な人間である。終盤、ついに親・家族・家をも裏切る裏切る行動に出た。所謂「高等遊民」たる代助の境遇は、浮世のメリーゴーランド状態となる。東奔西走先さえも見失う。題して『それから』と私は捉えます。【余談】草枕の那美さん、愚美人草の藤尾さん、ここでも美千代さんを美しく描いている。漱石って、美人を描かせたピカイチですね。
・「時を経てわかった小説」
大学に入りたての頃、映画化されて話題になったので読んだときは、正直ピンと来なかった。やはり漱石は「こころ」や「坊ちゃん」だなと思っていた。
しかし、それから10年ほど経って読んでみたら、心に響いた。何回も読み返した。人生経験をつまないと分からない小説ってあるもんだな、と思った。いまでも時どき読み返す。もちろん「こころ」や「坊ちゃん」も好きですが、私はこれがいちばん。
・「僕の存在には、あなたが必要だ。」
私にとって漱石のそれからは、日本文学史上最もロマンティックな作品です。代助は大学を卒業した後も、働こうとしない。それは彼が、怠け者であるからでも、世の中に出て行くのを恐れている(世の中の人間を見下している)からでもない。なぜ働かないのか、なぜ結婚しないのか、と他人に聞かれた時の彼の返事は本心ではない。(兄嫁だけがその事にうすうす気付いていたが。)本当の理由は、彼の心の中に大きな隙間があったからだ。それは美千代。彼は美千代との思い出の中に生きていたからだ。物語の終盤、代助が美千代の昔と同じ髪形を指摘し、「あら気がついて・・・」 というたった一言の中に三千代の悲しみ、恥じらい、喜び、ためらいといった想いが表され、美千代という女性、二人の関係を物語っている。彼らは同じ世界に生き、彼らの世界は、美千代が結婚した時点で止まってしまったのである。
そして今、時は再び動き始める。「それから」とはこの物語のあとの二人のそれからを指す。
・「物怖じせずに読んで欲しい」
精神病患者の多くは自分のことを「正常だ」、と強く主張するという。仮にあなたが間違って精神病院に搬送されたとして、医師に「私は正常です」と言ったところで、果たして信用してもらえるだろうか。
この小説は戦時下における精神病院という特殊な環境を舞台に、正常者と精神病者を分ける境目とは何なのかを問う。「普通」や「正常」に対する絶対的、かつ客観的基準など到底望むべくもないが、それでも何とかそれを掴もうと煩悶する主人公の姿は真摯で、どこか滑稽だ。
細部まで丁寧に描きこまれており、臨場感溢れる文体は見事。また、戦時中の精神病院といういかにも暗そうな舞台設定だが、内容はむしろあっけかんとしており、かなり笑える場面もあるので、「重そう」と二の足を踏んでいる方は心配無用である。
ページ数の多さやテーマに物怖じせずに、是非とも手に取ってもらいたい。楽しく読めて唸らされる、お勧めの一冊。
・「豊穣な世界」
武田が描く精神病院にでてくる患者は架空なものであるがゆえになぜか底でわれわれと似通ったものがある。われわれの奥底にあるさまざまな欲動をいろいろな形で極限化しているものばかり。だから親近感があり、そしていろいろなことを教える。人物ひとりひとりを見ていくだけでも面白いのに加え異常者たちを抑えようとして崩壊してしまう精神病院という全体の流れもあり、息のむ暇も無く一気に読み進めてしまう。最終章の落ち着いた武田の語りは何度読んだかしらない。いかにして生きるべきか。重い思索、読んでいいようのない充実感を感じる。人生の中でもっとも愛する書物のなかの一冊である。
・「正常と異常の錯綜」
戦時下の精神病院を舞台にくりひろげられる、混沌とした世界がこの本のなかにつまっています。正常と異常の錯綜し、優しさとむごたらしささえ逆転してしまう、結末への高まりに、眼が離せません。けれど、読み終わっても、心のなかに悲壮感が起こらないのは、作者の終末的世界をみすえた、「諸行無常」の念があればこそなのでは…?
第三次世界大戦の可能性すらある不安定な今、ぜひ手にとって読んで欲しい一冊です!
・「一気に読んでしまう長編小説」
戦時下の精神病院を舞台に繰り広げられる人間模様。この小説には沢山の重要な現代に通じる課題が詰まっている。異常と正常の境目は? マイノリティーとマジョリティーの関係は? 天皇に対する自由な意見を言えない情勢とは? 男と女の位置関係は? 女の性欲は抑圧されるべきものなのか? …数え上げればキリがない。それらが、当時のおそらくは一般的な統一見解であった何ものかが、精神病院という舞台では、時に逆転してしまうというアイロニー。登場人物がたくさん出てくるが、それぞれのキャラクターが確立されており、長編小説だが息つく暇なく読みふけってしまう。結末は、少し意外な印象をきっと多くの読者にもたらすであろう。
・「日本精神分析」
第二次大戦中、富士のふもとの精神病院を舞台とした小説。主要人物に憲兵が出てきたり、戦争に参加できないことを悔やむてんかん患者が出てきたり、自分を宮様だと自称する虚言症患者が出てきたり、と、大戦中の「日本」の精神分析を試みているような要素が強く入っている。特に宮様患者の言っていることは天皇制を巡る本質を突いているようなところがあって、興味深い。この作品で作者が描いてみせた日本人の特質というのは、現在も何も変わっていないので、こういう読み方は今でも有効だろうと思う。
もちろん、そういう「日本」批判だけがこの小説の魅力ではなく、例えば正気と狂気の境界をキリスト教的心理と共に描くクライマックスの凄まじさは、僕に取って多分一生忘れない読書体験になった。
なお、カヴァー裏表紙でこの作品を「大乗」の作品と埴谷雄高が書いているが、このストーリーの救いようの無さは全く逆だと思う。(ドフトエフスキー好きの埴谷にとって、宗教がどういうものだったのかは僕はよく知らないが。)むしろ、解説で斉藤茂吉の息子が指摘しているように「諸行無常」の作品と言った方が僕の読み心地にはあっていた。
・「坂口安吾選集の決定版登場」
安吾の純文学および幻想文学の代表作を網羅した短篇集。前月発売の「堕落論・日本文化私観」、翌月の「風と光と二十の私と・いずこへ」とあわせて、岩波文庫3冊で安吾選集のコンパクトな決定版ができた感じだ。分量も過不足ないし、これまでに出たどの作品集よりも純度が高い。最新版筑摩全集に準拠した初めての文庫本なので、「白痴」や「戦争と一人の女」は無削除版であり、「風博士」は冒頭の1文から他社の文庫と違う。あとはこれに、推理小説&ファルス、歴史小説、紀行&ルポなどで1冊ずつ作ってもらえれば、短篇選集としては完璧だろう。この巻の収録作は以下のとおり。
風博士傲慢な眼姦淫に寄す不可解な失恋に就て南風譜白痴女体恋をしに行く戦争と一人の女〔無削除版〕続戦争と一人の女桜の森の満開の下青鬼の褌を洗う女アンゴウ夜長姫と耳男
・「観念的な恋愛が好きな人にオススメです。」
安吾先生は「肉欲」とか「肉体」とか「女体」とか言うキーワードを好んでいた割に、性愛に走るのを拒み、理想論的な恋愛をガッチリ書こうとしていたようです。その思想は「青鬼の褌を洗う女」や「女体」「恋をしに行く」で顕著だと思います。プラトニック・ラヴに五月蠅い方には特にオススメです。
あと「戦争と一人の女」は無削除版のほうが記述が丁寧で読み易いです。血生臭くもうつくしい「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」も読めて、非常にお得な一冊です。
・「人間の魂を見詰める視線の遍歴」
この作品集には十四篇の短編が収められており、人間の魂を見詰める坂口安吾の姿勢の遍歴と、その小説への凝縮を辿ることができる。『吹雪物語』の執筆(昭和11年から昭和13年)或いは「文学のふるさと」の発表(昭和16年)を一つの境目と考えると、本作品集を興味深く読めるかもしれない。 坂口安吾の文学のモチーフは人間の魂の全的肯定にあり、それは人間生来の孤独、哀切(それを彼は「ふるさと」と呼ぶ)を冷徹に凝視することで為される。初期の作品に於いては、「ふるさと」に対する彼の態度は虚無的で感傷的だった。その感傷の故に数々の美しい詩的な作品(本作品集では「傲慢な目」を特に挙げられるだろう)が生まれたが、一方では視線には冷徹が不足し、「ふるさと」に対する態度には厳格が稀薄だった。そのために「ふるさと」には現実感が欠け、憧憬ばかりが顕著になっている。しかし徐々に(本作品集では昭和21年の「白痴」から)、彼は「ふるさと」に急速に接近して行く。感傷的なものから現実的なものへ、憧憬から希求へ、受動から能動へ。この姿勢の変化とその徹底によって、彼は人間の魂の深層を照射し、人間の魂の全的肯定そして人間の生命力への全的信頼に達したのだ。
・「突き抜けた小説」
金魚のC子とグイ呑みのことは、いまでもときどき思い出す。思い出すたびに、少しだけ胸が熱くなる。
・「小川芋銭に通じる「田紳有楽」」
川上弘美が書いた書評を読んだ。そういえば昔買った覚えがある。はさまっていたレシートを見ると1993年。池の底ならぬ書棚に沈んで十余年である。空中移動や変身の術は身につけていないだろうが、確かに古色は帯びていた。
作品についてはあれこれ言うことはない。間然とするところのない、見事な文章である。とりわけ、小川芋銭の絵を思わせる「田紳有楽」は優れて視覚的でありながら、映像化は至難と思われる。これぞ文芸の力である。
一方解説は、素直を書けばいいものを、こね回してわざわざ難しくしているような文章である。あんたの偉いのはよくわかったから、わかるように書いてくれ、と言いたくなる。こういう文章が、たとえば大学入試問題で読解力を試すのに使われ、若者の読書離れに寄与していることはほぼ確実と思われる。文章は情報の伝達手段であって、自己陶酔や自己顕示の手段ではない。小難しい文章を書くのが偉いのではないのだと、私は文系の連中に強く言いたい。
・「ぶっ飛びました」
なんだコリャ(○Cジーパン刑事)!凄い小説!田紳有楽…藤枝静男…知らなかった〜勉強不足!いやーこの感激忘れません。とにかく面白いから読んでみな、と勧めてくれた飲み屋のマスターに感謝!
・「なんとなくSF、の超私小説」
SFを知らずしてSFを書いてしまったのではないかというくらい飛んだ作品がふたつ。ありえない現象をしずかに書きとめてゆく自然主義の手法だけが流用され、私小説から軽やかに跳躍しています。いろんな過去を背負った生物-死物、偽物-ばった物たちが飲んで歌ってすべてをうやむやにしてしまう、どこかインド映画チックな『田紳遊楽』と、鬱屈した空気のなか、みずから倒錯へと身を投じることで、生とも死ともつかないあいまいな世界から厳しく自身を引き離そうとする『空気頭』は方向性こそ逆でありますが、指向する境地は似ている気すらいたします。藤枝静夫氏の作品には墓や病気、死といった不気味なものがよく登場するのですが、いずれも滑稽さと悲しさの薄皮に包まれて供されます。藤枝氏は不安さに耐えられなくなった時、期せずして発露される、真面目さがおかしさと区別が付かなくなるあの笑い泣きの境界に長く身をおいていたのかもしれません。あまり名前を知られることもなく渋い位置にとどまっている作家ですが、読んでみると「こんな作家が昔、日本にも居たのか!」という驚きがあることでしょう.....。というわけで、復刊を期待する次第です。
・「極私小説」
私小説を突き詰めるとこうなるという見本である。シュールさは安部公房をも軽々と凌ぐ。
藤枝さんが自らの全集すべてにサインを入れたというエピソ-ドは氏の人柄をよく表している。曰く「読者とより深くかかわりたい」作品は読むものをワシ掴みにする。
・「「時には傷つけあっても あなたを感じていたい」」
夜間高校講師で糊口をしのぐ売文業の夫トシオによる放縦な生活の果て、篤実な妻ミホが発狂した。 種々の意味において、狂気というのはしばしばあまりに鋭いもの。一度、妻の発作に火がつけば、夫の後ろ暗い過去の急所が、執拗にそして的確に抉り出されてしまう。 そんな狂気に晒される夫もまた、病みへと引きずり込まれずにはいられない。 塗り替えることのできぬ過去をめぐる責め苛み、夫はひたすらその過ちへの赦しを請い、妻も一時赦しを与えたかに見せるも、発作の度にそれらはすべて洗い流され、果てなき狂気の攻防が繰り広げられる。そこにちらつくかつての愛人の影、妻はさらなる闇へと向かう。「カテイノジジョウ」、不和と呼ぶにはあまりに苛烈な夫婦間のせめぎ合いは、当然に幼い子供たちを蝕まずにはいない。 過去の影に支配された一家の壮絶な修羅場は収まることを知らず、それでもなお、夫と妻は互いにすがらずにはいられない。「私からもぎ取られてしまえば、彼女は生きて行くことができないことに気がついた私は、彼女を手放すことはできない」。
異常といえば、それはあまりに異常な共依存関係。 しかし、島尾の描き出す狂気の軌跡はすべての人格に象徴的な寓話となる。「耐えがたい妻の発作も、あわれが先に立ち、ひたすら眠りこむそのすがたに、愛着の湧きあがるのがおさえられない」。 誰のことばだったか、愛の対義語は憎悪ではなく無関心、とはまことに至言。 愛なるものがもしあるのだとすれば、それはすべて互いを傷つけ合う代償としてはじめて見出される。 島尾の文体は時に読む側の胃壁をもただれさせんばかりに真に迫ったもの。 他者を傷つけずには存在しえぬ、この世に生み落とされた人間の不条理をこれでもか、と生々しく綴ってみせた、問答無用の名作。
・「鬼気迫る小説」
正直なところこの本を読んで愉快になろうと期待しないでください。心に突き刺さるような深遠かつ深刻な日々の葛藤を緻密に描写しているこの本。途中で投げ出さないでじっくり味わってみて欲しいです。島尾敏雄がなぜこれを小説にして世に出したのか。考えさせられます。
小栗康平監督の映画も観ました。松坂慶子が熱演しています。本書を読んでも今ひとつピンとこなければ映画をご覧になってください。きっと自分なりの答えが見つけ出せるはずです。
・「20世紀最高の作品のひとつ」
本というものは読んでも読んでもこの世に数多あり読み尽くすことなどとてもできない。また2度3度読み返すこともあるわけだから人間生きているうちにいったいどのくらいの本に出会えるのだろうか。しかしその読書という長い旅のうちに何度かは飛び切りの出会いがある。 まさしくそれがこの作品であった。 自分にとってほんとうに偉大な作家・作品との出会いは、今までウィリアム・フォークナーであったり、ヘンリー・ジェイムズであったけれどこの作品はそれらの体験に勝るとも劣らない衝撃的な出会いであった。この見事な日本語で書かれた美しい物語は読み終えたあともいつまでもこころの中から消えない。寧ろ時間が経つほど波紋のようにこころに染み入っていく。 これはほんとうの物語。ほんとうの愛の物語である。
・「夫婦愛を追究した名作」
私は20代で読んだ時あまり面白く感じなかったのですが、40代で再読して心に沁みる作品だと思い直しました。おそらく自分も結婚して子供もいるからわかる世界があるんでしょうね。経済的な苦労の部分も私には身につまされるところがあり、等身大の自分に近い状況設定も惹かれた要因でした。 ミホの純粋さはこの作品の重要な主題です。夫の不義に怒り狂う彼女の姿がいかに醜悪であっても、夫トシオが彼女の狂気に背を向けることができないのも彼女の純粋さゆえです。 浮気そのものをモチーフにする小説はごまんとありますが、それを罪悪と捉えその贖罪の様を真正面から描く小説はあまり見当たりません。「浮気が罪である」というあまりにも当たり前な道徳観を作者は本気で信じているからこそ、この作品は真実の輝きを帯びるのです。この作品の重苦しさは贖罪というものが当然担うべき重苦しさであると理解すべきです。ミホの狂気が全篇にわたって際立ちますが、実は夫トシオがミホの狂気に翻弄され、時に逃げ出したくなり悪戦苦闘しながらも結局受け止め続けているからこそ、この小説は均衡を得ているのです。だからこの作品はやはり夫婦愛を追究した小説だと言ってよいのです。 後年島尾氏はクリスチャンになられていますしご夫婦の関係も改善されたご様子で本当はそこまで描けば分かりやすいのでしょうけど、そこまで含めなかったのは作者のいかなる考えによるのか分かりませんが、贖罪に終わりはないという島尾氏の贖罪への思いが込められているのかもしれません。 映画はつまらなかったと思います。夫の一人称でその内面が綴られる小説のよさがほとんど失われているからです。夫の内面を通じて描かれる内的葛藤の姿がこの作品の命だと私は考えます。ミホも松坂慶子というあまりにもイメージの出来上がった著名な女優が演じているので小説のイメージが全く損なわれています。やはり小説で読むべきですね。
・「無意識下への良薬」
文学とはなにかを深く考えさせられた作品。つまりそれは人間とはなにか、という問いそのものなのだろうけれど、愛と狂気、日常と修羅とのあわいをこれほど克明に彫琢されると、人間とはこうも不完全な生き物なのか、と呆然としてしまう。物語は等身大のリアリティーに支えられながら進んでゆく。ページを繰るごとに息苦しさばかりが募ってゆく。そして最後まで状況に大きな変化は訪れない。にもかかわらず、読後言いようのないカタルシスに見舞われるのはなぜだろう。無意識下に働きかける良薬とはこうした文学の毒しかないのかもしれない。そんな根源的な力を感じさせてくれる作品。
・「あまりにも怖くて、そして切なく美しい」
作者の折口信夫は申すまでもなく国学者、国文学者、民俗学者、歌人、詩人であり、古代の生活に研究の成果からだけではなく、自らのイマジネーションも交えてアウトプットできる天才だった。だから彼の考え方は時代を超えている。この作品も、古代の世界を、そして死の世界を、古代人の目でとらえ、バーチャルに体験できた者でなければ書けないすごい作品である。とにかく初めて読んだ時の感想は、怖い、だった。死者を揺り動かす人の詠唱、土に帰った身体が目覚めていくその感覚、この怖さただものではないと思った。亡霊になると、それはおどろおどろしいものではなく、今度は無限の雅量に満ちた美しいイメージに彩られる。でも、だからこそ一層怖い。とにかく日本語で書かれた類のない小説の一つ。比較するのが適切かどうかわからないが、このレベルの文章は泉鏡花が達したくらいではないかと思う。夏にこそ必読!
・「いやはやすごい!」
いやはやすごい!これが「死者の書」の最初の読後感です。著者は専門の古代学者。そこいらの作家が参考図書を何冊、何十冊読んだだけでは決して描けない「古代の世界」が広がります。堀辰雄をして「古代を呼吸している」と言わしめた、感動の古代小説です。大和路の旅のお供にも是非!
・「読みづらいと思われた方へ」
この本の古代の空気を感じさせること、恵美押勝や大伴家持といった後に没落する貴族たちを印象的に描いた部分などのすばらしさについては、他のレビュアーが既に書いていることなので省略して、アドバイスを1つ。どうしてもこの本が読みにくいという方には、声に出して読むことをお勧めします。本書が読みづらい原因は旧かなづかいもさることながら、会話文と地の文が区別しにくいこともあると思います。しかし、音読すれば幾分か緩和されますし、実際、本書は声に出すとなめらかな響きのある文章なのです。お試しください。
・「メディア」
松岡正剛さんに感謝します。すばらしい時間を経験しました。著者の著作集は地元の図書館に眠っています。私の書棚のようなものです。受信能力のある、何者かに選ばれた古代人にとってのメディアとはまさしくこの物語中の老婆の語りだったのでしょう。著者の想像力と構想力の巨大さに圧倒されました。古代史を読んでみようと思います。白川静の万葉集についての著作にも啓発されました。日本の文化の一部分を感じることができてうれしくおもいました。
・「旧仮名遣いです。。。」
この本は旧仮名遣いで書かれています。読めないわけではありませんがスラスラとは読めない。同じ著者の『古代研究』(中公クラシックス)の方は研究書ですがこっちの方がとっつきやすい。
旧仮名に慣れてて予備知識のある人はついて行けるかもしれませんが、初心者は買わない方が無難かもしれません^^;
新編集版と銘打ってるのですが新仮名遣いでお願いしたいところ。
・「嘉村を旧かなで読むならこれ」
表題作に、処女作「業苦」、その続編「崖の下」に「途上」を収めた一冊。現在では本書の収録作品を含めた12編を収めている『業苦・崖の下』(講談社文芸文庫)があるので、そちらを読めば事は足りるのだが、にも関わらず、本書はそれなりの存在価値をもつ。
ひとつは宇野浩二による嘉村についての思い出話を交えた解説が付されていることだが、最大の点は本書が旧字旧かな遣いであることだろう。初出時にできるだけ近い形で読もうと思うならば、本書を手に取るべきである。
・「嘉村礒多の主要作品選」
山本夏彦さんがこの嘉村礒多を紹介している文章を読んだことがあります。たしか「途上」でした。普通の人が奇麗ごとでお茶を濁してしまうところを嘉村礒多は赤裸々に描いて煩悶します。それが新鮮でした。
この文庫の特徴は、正漢字正かなづかいで書かれていることです。また、内務省の検閲なのか、xxxxというふうに伏せ字の箇所が「業苦」に一カ所、「秋立つまで」に二カ所あります。ちなみに岩波の編集付記としては、「精神および身体障害に関わる不適当な表現があるが、原文の歴史性を考慮してそのままとした」、とあります。
嘉村礒多に興味を持ったなら、購入してみてはいかがですか。
・「いやー」
賛否両論あるようだがかなり面白かった。確かにあらゆる視点や考えからすると頭がおかしくなりそうなほど混乱をきたす。と言うわけで私は此れをおおまかに進めていって理解していったわけです。しかしここまで面白いことを考えれる作者はそうそういないと思う。まさに夢想家。まさに夢野久作である。
表現がそして面白い。これは文で表現しきれないので是非読んで欲しい
後半は少々グロイ表現もあるので、そういうのが苦手だと言う人にはお勧めしない。
・「ただ圧倒。」
「胎児よ 胎児よ 何故踊る 母親の心がわかって 恐ろしいのか」
1ページ目をめくると、「冒頭歌」と称して上の一文が載っている。この一文を読んだだけで、この小説の神秘性に引きずり込まれるだろう。
全編を通して異様な雰囲気の中、不気味なまでに軽快な語り口。推理小説などというジャンルにはめ込む事のできない、圧倒的なスケール。夢野久作が10年間推敲に推敲を重ねて完成した作品で、怪奇小説の中でも異端児と言っていいと思う。
「本書を読破した者は、必ず一度は精神に異常を来す」とまで評されている。しかし、たとえ精神に異常をきたしたとしても、一生に一度は読んでおきたい作品であることは疑いない。
途中まで読むのがしんどくても、後半はスイスイ読める。そしてその結末には、誰もが必ず圧倒されるだろう。クセはあるが、ハマると何度でも読み返したくなる、麻薬的一作。普通の小説には飽きたという人は、是非ご一読あれ。
・「良い感じに気持ちがわるい(笑)」
日本の三大奇書の一つらしく、「本書を読破した者は、必ず一度は精神に異常を来す」と言われている小説。
わからなかったことがわかって、それがわからなくなり、またわかるようになって、やっぱりわからない・・・・・・そんな感じ。 正直途中でかなりしんどくなる。 でも、ラストも良いと思うし、何よりこれが出版されたのが昭和10年だということがすごい。
別に幽霊とかお化けの話ではないし、「怖さ」を目的にして書かれた本ではないけど、本から出る雰囲気のせいで、自分の部屋に居づらくなった。 それには、カバーイラストから受け取ったイメージもあると思う。 本編に関係ないということで、このイラストに批判的な人もいるみたいだけど、個人的には上手いこと気持ち悪くて好き(笑)
読んで頭がおかしくなったとは思わないけど、読む人が精神に異常をきたすのではなく、逆にこの本を一字一句苦痛に感じず、完全に理解できる人 の精神は「普通」と言われている人達と違うのは確か、だと思う。失礼かな。
・「傑作です。」
絵でいうなら、だまし絵。音楽でいうなら、FAUST、COIL,NWW。フロイドのいう、夢の作用。作家はあえてつじつまを合わせようとせず、背後にある、読者の深層心理を刺激します。読む人によって、感想という以上に、何が論点になるかすらもはぐらかせられます。現実という足場を完全に踏み外した、正に異端の文学。しかし、途中でDNA的な記述は先端なのか、作家の先見なのか、無茶苦茶面白いです。
・「10年ぶりに再読しましたが,やっぱりすごい作品です.」
真夜中,どこかから聞こえてくる時計の鐘の音で目が覚めた「私」は、すべての記憶を失くしてしまっていた. 隣の部屋には少女(どうやら自分の許婚らしい)がわめき散らしているのだが、自分には全く身に覚えがない。 もう一度眠りについた「私」は、やがて朝になり再度目を覚ますのだが,そこに九州帝国大学医学部長を名乗る紳士がやってきて(どうやら「私」は九州帝大病院の精神科病棟の一室にいるらしい)、その紳士に連れられて失くした記憶を取り戻しに出かけるのだが...。
人により評価が真っ二つに分かれる作品です。 分厚い上下二巻組の作品であり、途中に「胎児の夢」と題する論文などが挿入されているので、読んでいて辛くなるかもしれません。 しかし、それを我慢して読み進めていくと、私と同じようにその結末にきっとあなたも圧倒されることになるでしょう。
結末のインパクトが失われてしまいかねないので、深く突っ込んで書けず申し訳ないのですが、世界に誇れる作品に仕上がっているということだけは言っておきます。
あなたがこの作品について、少しでも気になったことがあるのなら、一度手にとってみることを強くお勧めします。 そしてその時に,途中で放り出してしまいたくなるかもしれませんが、ぜひ最後まで頑張って見てください。この作品の世界観は、きっとあなたを大きく変えてしまうでしょう。
それでは御健闘をお祈りします.
・「『死霊』に対してかまえすぎてはいけない」
『死霊』は日本ではじめて書かれた「形而上小説」であるといわれる。それについて、どういうものが「形而上小説」であるのかという疑問が残るけれども、この『死霊』という小説がおもしろいことに変わりはない。この小説が難解で、テーマが重いと思うのはこの『死霊』をおもしろがっていないからだろう。ユーモアに満ち溢れていて、さまざまな場面に笑うところがあるのに笑わない人は、この『死霊』という小説を高いところに上げているからだと思う。『死霊』を前にして、かまえすぎなのだ。もっとリラックスして読むべき小説だ。「あつは」も「ぷふい」も笑うところだろう。学校で習った「読解」という方法で読むと最後までつまらないものとなり、まして作者の主張をすぐに読み取ろうとするのはもっとも的外れな読みといえよう。日本語が難しいからといって、そのテーマが、簡単な言葉で書かれた小説よりも重要と考えるのも、間違った読みと思われる。私にとっては、星新一と『死霊』とは同じくらいの重要なテーマを持っている。多くの小説は、自分のためにあって、研究や論文のためにあるのではないだろう。『死霊』は何度も何度も読むうちにようやくぼんやりと何かがわかってくるものだ。『死霊』は、最初にその笑いを楽しむこと、そしてそれに満足したあと、はじめて難解さを求めればいいと思う。
・「宇宙観」
死霊を読んで、初めて、自分がどんなに本を好きになれるか自覚した。この本は危険だし怖いが、読む人に現実を忘れさせ、至福の時間を与えてくれる。ふつうは世界という言葉を使うけれども、この作品の場合は「宇宙観」であり、いわば虚数の世界なのだ。否定肯定、自然人工、そのすべてを超え、生命力というよりももっと重力的な、強いエネルギーを持っている。 本来なら、こんな小説はあり得ない。全三巻だが未完であり(ちなみに埴谷氏いわく「未完で終わったら誰かにのりうつって書かせる」)、どの登場人物も魅力的で、非常に長い台詞の間は、共感や感嘆と同時に、胸の裏側で何かがグルグルと渦巻くのを感じる。展開も、(時には笑ってしまうほど)テンションが高いまま、たたみかけられる。 ドストエフスキーの影響を受けているのは明らかだが、私にはもっと日本的で、「具が大きい」ように感じられた。文学がすっきりとした形に収まる必要は全然無い。「死霊」の宇宙は、自分を押さえられないではみ出している! この圧倒的な小説は、小説としての醍醐味にあふれていて、かつ、小説を超越している。出会えて本当によかった。
・「最高傑作」
この作品の1ページ目を開けるとそこには、いきなり爆弾が仕掛けられており、作者である埴谷氏と同じ種類の病気を持ってしまっている読者はもろに被爆してしまうこととなります。以下「自序」における最初の一段落です。
「ここにやっと序曲のみまとまったこの作品について、その意図を述べるつもりはない。けれども、この作品が非現実の場所を選んだ理由については一応触れておきたい。開巻冒頭にこの世界にあり得ぬ永久運動の時計台を掲げたのは、nowhere, nobodyの場所から出発したかったためであり、また、そのような小さな実験室を設定することなしにこの作品は一歩も踏み出し得なかったのだから。」
「nowhere, nobodyの場所」・・・。埴谷氏は神でさえ創造し得なかったところの「無」を「未存在宇宙」、「虚体」、「のっぺらぼう」などという独特の表象形態を伴う概念を導入しながら、決して存在し得ない場所における物語をでっちあげてしまいました。もし人類がこれまでに行った手品、魔術の中でもっとも奇抜なものを挙げてくださいと火星人に脅されたら、私は迷わずこの埴谷雄高氏が作り上げたこの「死霊」を差し出します。これは誰でも読めるという代物ではなく、埴谷さんと同じ病気を持った人しか読めないような本ですので、以上の最初の一段落を読んで「あいたたた~」とやられてしまった人だけ購読をお勧めします。
・「文学の宇宙、人間と宇宙の小説」
「死霊」をはじめて読んだのはいつの頃だっただろうか。十代の終わり、まだ多感な時代。身近にあることよりも、どこにもない場所が身近に感じられる感覚に、素直に酔いしれることのできた時間。埴谷雄高の「死霊」が文庫になった時、はたして今の時代にどのぐらいの人が買うのだろうかとも、心配になったりもした。どなたかも書いていたが、あまり身構えずにこの本を楽しんだ方が良いと思う。正確には忘れたが、作家自身もこの小説は探偵小説の姿を借りているといっていたのだし。ようするに、文学とは、読んだひとがそれぞれの感性や想いでそこに描かれた物語の宇宙を探索するものだろうから。そこに、文学の哲学とは異なる醍醐味がある。そして究極の読書とは、作家の想像力と読者の想像力との戦いでもある。「死霊」にはそういう意味で“文学の宇宙”が確かにある。さて、埴谷さんが亡くなられたあと「死霊」を継ぐ文学者や小説家は出現しただろうか。存在することの不快さを感じる人間はいなくはならないだろうが(ますます増えているかも知れないが)、「虚体」というような思いもよらぬテーマをそこに打ちあてる作家は、まだいないかも知れない。目線を横や斜め下方に向けて見てしまいがちな現代、全く異なった、どこにもない場所の宇宙へと想像力を向けさせる埴谷雄高を、ぜひ誰かに奨めてみたい。
・「「死霊達の舞台」といった感じです」
最初に書かれている「自序」からちょっと構えてしまいました。ここに書かれていることを理解しえないで、先に読み進めていいものだろうかという躊躇がしばし頭を掠めました。が、冒頭から癲狂院という場面が登場するものの、展開に興味を持って読めます。
作品が書かれた年代からは当然ですが、私にとっては難解な漢字・表現が多く吟味して読むのに時間がかかりました。登場人物の語る場面が多い文章は、一つの舞台を観ているようです。知らず物語に引き込まれ、自分の居場所を見失うような気分になりました。
ここでは「普通の人」は、登場人物にはなり得ないように思います。皆一癖あり、その性格設定に考えさせられました。主人公の三輪与志は、癲狂院での精神病医との議論以外自身では多くを語りません。彼の求める「虚体」が、何か他の人物によってやり取りされますが、その実態が何かを次に読み進めていきたいと思います。
・「不思議な魅力のある作品」
筆者がゴーゴリの強い影響を受けているということで、実際、ロシア文学を読む時に感じるような、静かな迫力といったものを感じました。
特に劇的な事件が起こるわけではなく、ただただ「外套」をめぐって主人公が動くだけですが、その過程において、実にゆっくりと、様々な回想などを挟みつつ、過去が再訪され、そこにいた人たちが再訪される、それが読み終わる頃からじわじわと不思議な感触となって残っていきました。実際、少し前に読んだもので、何か印象的な場面が残っているとかいう感じではないのですが、むしろ何気ない場面がなんとなく残っていたりします。
現実/虚構のようなテーマが好きな方も楽しめるのではないでしょうか。
・「反ナルシズムの散文性」
この小説における〈現在〉と〈過去〉の挟み撃ちは文学における挟み撃ちでもあるのだろう。しかし書かれた言葉に縛られながら、ある種の諦観とともに冒頭で否定的条件を羅列させる(裏を返せば書かれていないものを見出そうとする)この小説において、「外套探し」とは果たして副次的なものなのだろうか。蓮実重彦が指摘している「反ナルシズム」は途中、物語が一瞬混迷したことによって断ち切られたのではないか。
・「最後の鎌倉文士」
近現代の日本の文学でもっとも文章がうまい人は?と問われて永井龍男を思い浮かべるのは決して私だけではないはずだ。
処女作が16歳で認められながらも、文藝春秋の社員を経て、短編の名手としての真髄を発揮したのは40歳を越えてからの事である。
その文章はいわゆる美文というやつではなく、端正でいて艶があり、簡潔にして人生の深遠をえぐる。電報で上手く表現できるのが究極の文章の達人であるといったようなことを書き残しており、また小説家・随筆家でもあると同時に俳人でもあったといえば、一度も読んだことが無い人も何らかのイメージが出来るのではないだろうか。
内容も本書収録作品だけ見ても(もっとも晩年のこの頃の作品が一番出来がいいのだが)シュールな「一個」、ちょい悪オヤジの大人の恋愛小説「蜜柑」、ミヒャエル・ハネケも真っ青の「青梅雨」、禁忌を破った女の孤独が琴線に触れる「冬の日」、少年時代を回顧した自伝的な「雀の卵」、そして幽玄を極めた「秋」となかなかバラエティに富んでいる点が名文家を実のあるものにしているのである。本書は短編の選択がなかなか上手い。
新聞の切り抜きをもとにした創作も多いが、本人と思しき人物の身辺を描いた作品も多く見られ、その意味では私小説を多く残したといえるが、本人は葛西善蔵のような他人を巻き込んだ破滅型の私小説には否定的で、あくまでも客観的に自分を描こうとしたようだ。なのでべたべたしたところもどろどろとしたところも存在しない。
自らの思想を雄弁に語ることも無ければ奇を衒った表現も一切無い。なので人によっては何か物足りない感じを受けるかもしれない。けれどもそれだけにこのまさしく名人芸の文章には、はまると抜け出せない魔力がある。日本人なら一度は読んでおきたい人である。
・「「地元」の純文学」
地方に出かけてとくに観光するでもなく、「ついでに」著名文学者が住んでいた場所というのを訪れることがある。記念館などが建っていると、そこに根ざした文学者の手紙などが展示され、その文学者と、その場所の強い繋がりを感じることがある。封書の宛名書きすらも作家と地域の繋がりを主張しているように見え、なんとなく、「『文学』とはこのようなものであったか」などと感じる。
永井龍男の作品も、作家と地域 -鎌倉- の「繋がり」を印象付ける作品が多い。それが単なる「身の回り」を描いた私小説というだけでなく、まさにその地域にマッチした文体が感じられる。そしてその文体が描き出す登場人物のカタチも「そう、この人物はまさに鎌倉の人」などと思えてくる。
一時期の(?)私小説排撃ブームの頃から、あまり「地域」や「地域の人」を描く作家はいなくなったように思う(鎌倉、京都などはそれでも題材に選ばれることは多いのだろうが)。永井龍男の短編は、その文体も相俟って「懐かしさ」を強く感じさせる。
中村明氏によれば、永井龍男の文章を読んで、そのあまりの見事さゆえに作家になるのを諦めた人すらいると言う。確かに「文章」を、あるいは「文字」を読ませる作家で、今この時代に読んでみるのも面白い作品羨ましいと思う。
・「実は文体の実験作」
ストーリーの猥雑な生命力に昭和無頼派作家の味を読めるが、そこは私小説「蛍の墓」や童謡「おもちゃのマーチ」を生み出した野坂の作品であり、何ともいえない可笑しさと哀感が伴っている。この小説は実はかなり技巧的に凝った作品でもあり、これが長編デビュー作ということは驚くべきことであろう。
地の文と台詞の間に、関西弁による心情の独白を巧妙に織り交ぜて文体の問題に捻りを聞かせる一方で、関西弁のリズムを最大限に活かすことで言文一致以前、近世の世話物を彷彿とさせる不思議な言語空間を作り出している。やはり関西弁を駆使した町田康が文壇に活動をシフトした頃に、たまに野坂が引き合いに出されていたが、個人的には野坂の作品の方が読み応えがあると思う。どちらも私小説作家の側面を持つが、戦中派・野坂が実人生でくぐってきた悲劇の分、作品世界に重さと社会的な広がりがあるのではないか。
・「確かに面白すぎる」
上品な方でも楽しめると思います。PTAでは確実に黙殺されそうな内容ですが、そういう人に限って裏では喜びそうな、とにかく、面白いとしか言いようのない傑作。最後のシーンは笑いどころか、もし自分がそんなことになったら洒落になっていないと恐怖する場面でもありました。とにかく、多少の癖はあっても、これ以上に笑える文学はないと思える素晴らしい本。
・「戦後文学史に屹立する欠落」
この小説に登場する人物は皆どこかしら壊れている。壊れているというのはやや曖昧な言い方かもしれない。とにかく、何かが欠落しているのだ。例えば、ブルーフィルムの編集に情熱と才能を燃やす男は、編集のためだけに性欲が昇華されてしまう。主人公のスブやんの娘は母親を亡くし、近親相姦まがいの行為を行う果てに売春を行うようになる。母の欠落。そしてスブやん自身は勃起障害という「欠落」を抱えながらエロ道を追及する訳だし、最期には生命を「欠落」させることで男性を屹立させるのだ。それこそ西鶴やらの「古典」町人文学を思い起こさせるような文体の魅力。関西弁の響きはいやらしさをさらに増進する効果を持つ。たとえ現実の性風俗が本書を追い抜いてしまったとしても、本書の価値は依然「屹立」し続けたままだ。
・「性と死を見つめて」
基本的には戦後のある時期の、エロとそれで飯を食っている人達についての面白おかしい話ですが、かなり恥ずかしい死に様さえ喜劇になっている辺りが・・・・・面白い、愛すべきエロ馬鹿達の話という表現だけで片付けるには大きすぎる内容かもしれません。
・「枕元において寝ています」
可愛げのない読み方をすれば、いくらでも否定的な意見はでてくるだろうし、方法論的にも分解できるであろう。この本をひとつの小説として批評し中傷することは<誰にとっても>容易なことだ。20才前後の青年ならば言語的理由なしに絵をみるようにこの作品を感じ取ることができるだろう。そしてこの作品の良さをいちいち言葉に置き換えることがひどく陳腐なことに思えるだろう。もし君がまだ青年といえる年齢だとしたら、その年齢でこの本を読めることはとても幸福なことである、と私は断言する。
・「あらゆる時代のコモン・センス」
゛おれにとって唯一の行動が自殺だ!″ぬう。この小説でいわれる゛われらの時代″とは、これまでのあらゆる時代に相応する。この小説が、古く時代遅れの懐かしい古典と成った時にこそ、人々は新しい世界に包まれている。一時も迅く、゛われらの時代″から飛び立とう!
・「試される」
あくまで情況に責任を押し付ける逃避的な主人公の行動が、そのまま、その主人公の態度と対応するものがはっきりとは書かれないまま、絶望的なかたちでこの小説は幕を閉じます。
読みながら、その対応物を形作る事を、主人公の描写だけではなく、細部にちりばめられたグロテスクともいえる具体的なモノたちによっても、喚起される不快さによって、読者は要求されることと思います。
読書に依存するということを、その読者に対して拒否する小説だと思いました。読書とは受動ではなく、あくまで主体性をともなった行動なのだということと、それだからこそ読書に体験としての意味があるということを、改めて思い知らされました。そういう意味ではやさしくない小説です。
この作品が批判された理由は案外そういうところに、あるのではないか。
・「もう一度読み返してみようかな~。」
学生時分、氏の作品にハマルきっかけを与えてくれた作品です。当時、皆が村上龍氏に嵌っていたが、今作品の方が余程先駆的だなぁ~と感じました。内容云々は賛否在るでしょうが、節々に散りばめられたメッセージには当時の鬱憤・不安を抱えた十代には鮮烈であり色々考えさせられました(印象的な部分はページを折ったりもしてました)。
・「閉塞生活の夢想」
カフェで読み終えた私は店内を見渡す。サンドを頬張る女性、しきりにノートにメモを書き込んでいる若者、携帯でメールしている高校生、外人と会話している中年男性・・この瞬間、この空間で「生きるスタイルは様々で、生きたくないと思うこともその一つなのだ。死はすべての煩わしさから逃れることができる切り札である」と思いながら心臓に手を当てる。でも、私は帰宅して明日になるとそんなことを考えていたことを忘れている。毎日食事を摂り、十分な睡眠を欠かさず、生きることの本当の理由など考えたこともなく健康に暮らすことを願っている。私は今後も政治家に国民の皆様と呼びかけられる側の小市民の中の一人として、壊された小さな宝物をいつまでも大切に抱き、殺戮しあう民族のニュースを遠くで聞きこれでいいのだと言い聞かせながら生き続けるのだ。
・「詩情あふれる作品集」
梶井基次郎の作品は人間のくたびれた様な心情の捉え方がうまく感動してしまいます。 作品的な感想は詩を読んでいる様な感じです。ちょうどさらさらと水が流れる様な…… 少し違和感があるようですが、やっぱり人間の心の奥底からくる様な発想、思考、儚さを感じさせる展開は現在でも立派に通用する名作だと思います。 ぐっと感動させるとか、大きく人の感情を揺り動かすということはありませんが、読んだあとさわやかな気分になります。 作者の文豪へあこがれながら肺病によって若く夭折してしまった事実を背景に読んでいくと感動も一入です。 近代文学の中でも割合最近の方なので、純文学をあまり読んだことが無いと言う人にも親しみやすいかと、思います。
・「梶井基次郎がみつけたかったもの」
本書は梶井基次郎の短編集。表題『檸檬』は、梶井の処女作である。
『檸檬』の主人公は、肺病を患い精神的にも不健康になり、自堕落な生活を送っていた、そんな彼が、或る日、京都の寺町通りにある八百屋で檸檬を買う。異国の果物の華やかな色、不思議な形、清しい香り…それは彼の心に小さな波紋を投げかける。そして、その波紋の消化の仕方に梶井らしさが光る。
「病的」。そんな言葉がぴったりなのが梶井の作品である。彼は、肉体的にも精神的にも病んだ自分を癒そうなどとは思いもしない。更に自分を追い詰めて、真理に 薄しようとするのである。それゆえ、穏やかな情景を描写している作品の中にも、冷たい緊張感が漂う。
は健康も愛も救いも求めていない。彼が自らに鞭打ってまで見つけようとした真実とは、一体なんだったのか、そんなことを考えながら読み返すと、また違った面白さがある。
・「果てしなき日々」
梶井の作品は一言で言うと、暗い。もう一貫して暗い。
「檸檬」は教科書にも載っている一番有名な梶井の作品であるが、これはまだ明るいし、あまり面白いと感じられなかった。
だがこの本に入っているほかの話は掛け値なしに面白く、暗い。鬱々と生きる男の心象を、凹んでいる時に読むと袋小路のまた底で同志を見つけたような気分になる。
実際どうだかは知らないが梶井は駄目男であるように思う。彼の話を読んでいるとそんなイメージが湧いてくる。主人公の多くは現状を打破しようとせず、鬱々と現状を眺めてすごす。やる気、は無い。行動、も無い。「もっともっと陰鬱な心の底で彼はまた呟く。」
「生きんとする意思」をうらやむ彼。中でも「冬の日」は梶井小説の真髄であると思う。
暗い光が刺す美しい闇。「冬の日」の最後の文「にわかに重い疲れが彼に寄りかかる。知らない町の知らない片隅で、嵩の心はもう再び明るくはならなかった。」に彼の小説の雰囲気が凝縮されている。
これに惹かれちゃう人にはオススメ。
・「幻想的な作品集」
短編とも随筆とも思える数多くの作品が収められた一冊です。私が思うこの作品の読み所は、心に鬱々とした重い気持ちを抱えた主人公が歩く街中の風景の描写です。表題作の「檸檬」では寺町通の店の一つ一つから路地裏にかかっている洗濯物まで細かく説明されており、また売られている様々なものに思いを馳せている様子が伝わってきます。こういうのは心象風景というのでしょうか?文章を読んでいると、「何か得体の知れない不吉な塊」に囚われた青年の見る寺町通が、なにやら幻想的なイメージで浮かび上がってくるようです。
・「檸檬 レモン れもん」
伝説の短編となった「檸檬」。あまりにも有名なラストシーン。時々、マンガなどでもこのシーンのパロディを見かけるほど。憂鬱な主人公に与えた八百屋の檸檬の衝撃。そしてその後のラストシーン。約20頁程の中に詰め込まれた物語。私はラストシーンを読み、にんまりしてしまいましたが、皆さんの反応はいかに。読んだら教えて下さい。
・「全親必読!親子関係を見つめ直す事を迫る作品。」
過激派に身を投じてリンチ殺人に関与し逮捕された長男。自立じた個人という観念から長男との関係を規定し、親としての謝罪も援助もかたくなに拒否する父親。そんな夫を非難し精神に異常をきたす母親。事件により結婚が破談になった妹。我関せずとシラケる弟。登場人物の造形はまぎれもなく戦後日本を象徴する或る型を純化したものだ。とりわけ父親信之が貫く「自己責任」の態度は、丸山真男が近代的個人として想定した独立した個(国民)のあり方を純化・肉化した造形として考えることもできる。それが、今尚本作品を読むに値するものとしている。実際には現在でさえ選びがたい、極めて理念的な父子関係が設定されている一方で、父親と長男とに共通して流れる紀州の旧家の「血脈」が土着的なもののの象徴として描かれてもいる。それが物語に独特の民俗的風合いを醸している。子供を持つにあたって常に頭のどこかで気にかかるものとなることは間違いない作品である。文庫でさえ入手し難い現状だが、一読を薦める。
・「小説」
著者の、数少ない小説のひとつ。いかなる批評をも拒絶する意思を感じさせる。
●プレオー8(ユイット)の夜明け―古山高麗雄作品選 (講談社文芸文庫)
・「佳作」
プレオー8は、「エイト」じゃなくて「ユイット」と読む。だって、ヴェトナムは、フランスの植民地だったから。本作には、サイゴン中央刑務所のきわめて平凡な捕虜の日常生活が描かれている。食う、寝る、遊ぶ、働く。いつ身に覚えのない罪で処刑されるかもしれない、そんな死の恐怖と隣り合わせながら、塀の中で、主人公は草芝居に夢中になる。捕虜体験を作者は、淡々とリアリスティックに言葉を綴っている。
ただし、巻末の「著者から読者へ」によると、戦後25年経ってようやく作者は、本作を結実することができたという。
極限状態に陥った時、人は、どんな行動に出るだろう。達観してしまうのか。開き直るのか。忘却してしまうのか。忘れられるはずがあるものか。作者は奥方から「あなたは、(生地である)朝鮮と戦争のことから一生頭が離れないのね」と言われると「そうだ」と肯く件(くだり)がある。
本書には、九つの短篇が収められているが、妻と二人で作者の父の出身地で、今はダムの底に水没した村を訪ねる「七ケ宿村」も飄々とした夫婦のやりとり、年輪を感じさせる佳作である。哀しいことに、一生頭から離れないものに、亡くなられた奥方がプラスされたことだろう。亡妻のことを書いた「東林間のブタ小屋」を読んでみようと思う。この一文を引いて結びとしたい。
「生者には、哀しみを均(な)らす営みが必要なのであろう。哀しみに限らず、すべて、ものごとを薄め、均らして共有する営みが必要なのであろう。戦争や軍隊に反撥してみても、大岩を爪で引っ掻いてみるほどのことだというが、どのような時代にも、社会は大岩であり、人は薄めたり、均らしたり、虚妄を共有することに参加しなければ、他人と円滑に共存することはできないわけだろう」(「戦友」より)
・「海の向こうでいつも始まりつづけているビシシチュード」
様々な不安に包まれて窒息しそうな「現代」。他人と自己の差異は嫉妬・羨望・嫌悪・愛情等等の感情の絡まりで曖昧化される。他人の不安は自分の不安、ワイドショーの怒りは当たり前のように自分の義憤。そんな恐ろしい現代社会を詩的に死にたくなるような不思議な静寂で描いた傑作。『海の向こう』とはいつもそこに淡々と存在する『他者の世界』であり、そこでは直視することを躊躇うような戦争がアナタの参戦を待っている。
・「水墨画と詩人」
村上龍の作品で 個人的に一番好きなのが本作である。
芥川賞を取った「限りなく透明に近いブルー」と 村上の本日時点での最高傑作である「コインロッカーベイビーズ」との間に書かれた本作は 小品と言ってよい。あまり知られていない作品であると思う。初期の村上が持っていた「暴力と静寂」という面では 特に静寂な作品であると思う。「限りなく透明に近いブルー」が その突出した内容にもかかわらず どこか水墨画の趣を湛えているとするなら 本作も 同様の 黒白の絵を思わせるものがある。
それにしても この頃の村上は 天性の詩人であり 一種の絵描きを思わせるものがある。「コインロッカーベイビーズ」以降の村上の作品は 玉石混交であり 騒がしい作品も多い。それに比べて 本作の静寂ぶりが際立つ。そんな静けさが 小生を捉えて離さない。
・「神経にピリピリくる描写にしびれる」
村上龍作品の中では、なぜかあまり評価されていない一冊ながら、自分的にはベストの一冊かも。読者の感覚のヒダを強く摩擦しながら通り過ぎていくような、脳というより神経を刺激されるような文体がとても素晴らしい。前作で華々しくデビューした後の2作目。執筆時の事情はよく知らないが、何かをキメて、自動筆記的に勢いで書かれたようなグルーブ感が圧倒的。たぶん好き嫌いは分かれるが、個人的にはこの一作に村上氏の最良の部分が表現されていると思った。
・「全てが淡々と並列」
海を挟んだこちらとあちらの物語。 リゾート地の浜辺で休日を謳歌するこちら、街をあげてのお祭りに湧くあちら。やがて戦争が始まり壊れ始めるあちら。それを知ってか知らずかぼんやり眺めるこちら。 全てが淡々と並列で進んで行く。それは画面越しにしか世の中を知ることが出来ない、画面越しの世の中を知ってしまう私たちの哀れ。
・「一番すき!!」
村上龍の大ファンである私が一番すきなのがこの作品です。主人公の願望であるともいえる海の向こうの物語を主人公の目を透して伝えるというアイデアと、詩的な要素が後の村上作品には見られない特徴です。この物語はひょっとして村上龍の願望でもあるのかな。
・「「鉄筋コンクリート」を「虫だ!」と思う感性のすごさ。」
萩原の思想の神髄を<新しき欲情><絶望の逃走><虚妄の正義>から読み取れば読みとるほど、『猫町』という一見大したことのなさそうな話は、痛烈な重みをもった真実なのだと思う。しかし、家では娘と酒の席でおちょこを揺らし、感慨深くマンドリンをかき鳴らしたり、書斎の机の引き出しに、秘密のマジックの道具をしまい込んで、私かに練習をしている。そのこどもらしい萩原の姿も、また真実の朔太郎である。本書は、「この手に限るよ」のような朔太郎のおちゃめな部分をかいま見ることのできる貴重な短編集だと思う。普段矢鱈に不幸だの、病気だの言われている朔太郎だが、神経質で臆病な彼は実に子どもらしい伸びやかな感性を持っている。「およぐひとのてあしはななめにのびる」という詩を思い出!す一冊である。
・「空前絶後」
「人は一人一人では、いつも永久に、永久に恐ろしい孤獨である。原始以來、神は幾億萬人といふ人間を造つた。けれども全く同じ顔の人間を、決して二人とは造りはしなかつた。人はだれでも單位で生れて、永久に單位で死ななければならない」など、詩作以外でも悩める若人の心を揺さぶる言葉をいくつも残した朔太郎であったが、家庭生活では大きな問題を抱え、「聖戦」を謳う評論「日本への回帰」を書くなど、実生活における萩原朔太郎は詩を書く萩原朔太郎とは違ったある意味貧困な世界で生を送っていたのかもしれない。彼自身が語っているように「詩は神祕でも象徴でも何でも無い。詩はただ病める魂の所有者と孤獨者との寂しい慰め」であったのであろうか。だが、たとえ彼の実生活における混迷が事実として在ったとしても、彼の実生活と詩世界とは切り離して考えるべきである。日本の近代口語自由詩、つまり現在私たちが「詩」として捉えるほとんどすべての詩の元祖でありいまだ最高峰であり続ける詩人・萩原朔太郎の評価は、その実生活によってなんら貶められることはないほどに優れたものなのだ。
私はたった数行の詩「蛙の死」の「丘の上に人が立つてゐる。帽子の下に顔がある」という箇所において「詩」が持つ力というものを初めて目の当たりにし、圧倒された。この部分には「金槐和歌集」のなかで源実朝が詠んだ「大海の 磯もとどろに よする波 われてくだけて裂けて散るかも」に匹敵する奇跡的な描写と言葉遣いの豊かさがある。前者は「丘の上=人 と 帽子の下=顔」を対照させることによって表された見事な遠近感。そして後者は「われてくだけてさけてちるかも」の部分における波のスローモーション動作の表象。言葉の持つ力、可能性をたった数行で我々に知らしめてくれる彼らの豊かな表現力は見事であるとしか言いようがない。
・「ひとがひとにみえない」
表題作が菅野覚明『神道の逆襲』や春日武彦『不幸になりたがる人たち』に引用されているのを読んで、原典をようやく手に取った。編者の解説が3分の1ぐらいのボリュームがあり、これが初心者にとって非常によかった。清岡は、萩原が夢見ていた美しい近代の幻想が、全体主義と軍国主義が席巻する時代において、群集によって「無残に破壊されるかもしれないという絶望に近い思い」を読み取る。それぞれの多様な読みを読み比べることが面白かった。私などの思いが及ばぬほど、深い。
その他も、萩原が親交のあった芥川が出てきたり、ニーチェやショーペンハウアーに触れていたり、昔の東京の景色が現代的な都市のイメージをもって語られており、それぞれ興味深い。中でも、「老年と人生」が、性欲に振り回されなくなった自由さをあげて、加齢を肯定的に書いているところがよかった。老年を楽しむために、まだまだ修行不足だと言いながらも。
・「密度が濃い」
ページ数が非常に少ないのでさくっと読めましたが、内容の密度は濃くて満足。
表題作の「猫町」が一番楽しめました。違う道を通って既知の場所に出てもすぐにはそれと気づかない感覚の経験は私にもあるので非常に共感できます。全体的に漂う幻想的な雰囲気と、原因の顛末を明かしながらも理屈では一蹴できない余韻を残しているところがまたよし。
殆どが散文詩的な作品ばかりですが、そのなかでは「坂」の冒頭がよかったですね。 坂上の境界線の先に広がる浪漫はこれまた私もよく感じるので共感できるのですよ。それだけに結びの錯誤が哀しい現実感を嫌というほど伝えてきます。
・「猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫。どこを見ても猫ばかりだ」
自分が萩原朔太郎について知っていること。・詩人。「青猫」「月に吠える」を書いた詩人。教科書に載っている作家。・芥川龍之介のお友達。・「蕁麻の家」を書いた人のお父さん。――にトライ。
第一部「猫町」「ウォーソン夫人の黒猫」「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」…創作風短編第二部「田舎の時計」「墓」「郵便局」「海」「自殺の恐ろしさ」「群集の中にいて」「詩人の死ぬや悲し」「虫」「虚無の歌」「貸家札」「この手に限るよ」「坂」「大井町」…SS第三部「秋と漫歩」「老年と人生」…短い随筆これらをチョイスして並べた編集者の解説(すごく長い)
萩原朔太郎の散文詩、短編やSSをある角度で集めた作品集。散歩の途中で道に迷い見知らぬ町にたどりつく。よく見知った町が裏返るような未知感で満たされる「猫町」。知覚ミスなのか幻想なのか?ある日から突然に部屋に出没する「黒猫」に怯える「ウォーソン夫人の黒猫」。その異常さに誰も気付かない。私の話を無視してないでこの猫の不自然さに気付いて!日常に忍び込む違和感にぎょっとさせられる。一瞬の狂気なのか。オカルトなのか?長々と書かれた解説がまた興味深いです。けして生前豊かではなく親の脛かじりだった作者。壊れた結婚生活と作家としての悩み。文壇に上がるほどの著名な人物なのによく知りませんでした。現在だったらこのオカルトじみた作品や現実と狂気のフラッシュバック、精神面の脆弱性はよく理解されるような気がするのですが。文学作品にしてはちょっぴり厨二風味で読みやすいです。実は猫沢山の「ビバ!猫天国」を期待したのですがいい意味で期待はずれでした。
ウォーソン夫人の逆切れ、怖かった。
・「私小説の到達点」
昭和9年に「酩酊船」でデビューした後、60年もの間を、光学工場やダム工事現場、印刷工場等で働きながら思考を極めていった後、突如小説の世界に戻った森敦。彼の思考はトポロジーや華厳経に影響を受けたもので、時空間の内部と外部の境界にあたる「近傍」での思考を死生観・宇宙観・文学観にまで拡げていった独特なものだ。
「内部vs外部」の対立が論理的にパラドクスとなり、「内部=全体」となるような瞬間の感覚は、スピノザや西田幾多郎の思考をトポロジー的感性で思考したものだとも言える。この点で、「二項対立の脱構築」が旗印になっていた80年代に、柄谷行人が絶賛して出版に一役買ったというのも頷ける。(本書の解説では柄谷の他、浅田彰、岩村克人、中上健二という錚々たるメンバーが絶賛の文章を送っている。)
レンズ磨きで生計を立てたという伝説のあるスピノザを彷彿とさせる森敦の人生のエピソードを知る人は今、少ないと思う。でも、そういったことを踏まえると、この小説で書かれていることが、彼の人生の各場面での思考の総体であることが分かり、この極めて抽象的かつ宗教的な世界が「私小説」として構成されていることを知るだろう。「私小説」とは作家の人生観がそのまま表現されるものだが、ここまで哲学的な成熟を表現した私小説作家というのは、今のところ彼の後には出ていない。(森はこの小説を亡くなる数年前まで手を入れ続けた。)
中上健二以外の作家を中々手放しで誉めなかった80年代中頃の柄谷行人が、「奇蹟的な作品」と呼んだこの作品。こともあろうに絶版中なので、今のうちに入手しておくことをお勧めする。
・「「意味の変容」を読む「私」」
雪国にある家内の実家で義父の書棚を物色していると、埃にまみれた本書にふと目が止まった。数年前に読んだ『酩酊船』の感動が突然脳裏に甦り、思わずそのまま没頭して読み始めた。初めは書かれている内容がさっぱり飲み込めず、これは相当な学力が必要な書物であるのだと半ば絶望的な気分に陥ったが、分からないままに小走りで拾い読みしていくと、所々に何やら心に引っかかる箇所が幾つか点在している事に気がつき(大抵それは短い一文であったが)、時おり窓の外の雪を眺めながら暗中模索といった具合に読み進めた。途中で気付いた事だが、それは初めて味わう読書体験であった。読みながら視界が奇妙に変容していくのである。そうこうしている内に最後の一文まで辿り着き、本書を閉じたのは夕暮れ過ぎであった。私は『酩酊船』の主人公の如く煙草に火をつけ窓を開けた。世界は境界線の連続であるように見えた。私はある一定の意味に支配された世界内部にいたのである。煙草を吸い終えると、私はまた初めから本書を再度読み始めた。最初に難解だと感じた箇所がすんなりと頭に入っていき、本書の難解さは知識の欠落からきていたのではなく、固執した自分の姿勢の在り方にあったのだ分かった。ここもまた任意の一点に過ぎないのである。森敦は我々に「外部へ出よ」と誘っていたのだ。私は自分の心が以前より軽くなっている事に気付いた。本書は決して読者を選ぶ難解な書物ではない。万人に対して開かれた、奇妙な魅力に満ちた作品である。
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